2017年11月18日語り部と歩く熊野古道7回目に参加です。朝起きると雨が降っています。6時33分発電車ちょっとしたミスで乗り遅れ大急ぎで茶屋町駐車場集合場所へと・・・今回は“曽根次郎坂・太郎坂(甫母峠)を越えるコースです。尾鷲と熊野の市境にある甫母峠は次郎坂太郎坂と呼ばれています。ここが志摩と紀伊の国境であったことに由来し自領他領が訛ったものだそうです。
道の駅で何時もの熊野川弁当を頂きます。
曽根次郎坂・太郎坂地図 山菜ごはん・鮎の甘露煮・うめ鶏の甘酢あんかけ・
高野豆腐・大学芋
雨支度を整えて、いざ出発です。
曽根の集落を抜けて裏山の向井地墓地へ・・12時56分
向井地墓地に六地蔵が鎮座
無事をお祈りして
向井地墓地から眺める賀田湾 曽根の登り口 13時02分 
1時間ほどの上りが続くそうです。世界遺産道へと・・・
上り始めるとすぐに曽根の猪垣、「猪垣」は
田畑と山林の境界に石を積み上げて鹿や猪の
侵入を防ぎ農作物の食害から守るための石垣です。
往時の人々の苦労が偲ばれます。 
100m置きに設置されている標識02/39
甫母峠1180mの標識
語り部さんから石切り場跡の
説明を聞いています。
古道から少し離れたところに、江戸城の築城に
使われた石材の石切場がありました。
およそ350年前に江戸城中ノ門修復の際に紀州藩より
献上された熊野曽根石が石垣に使われていることが
熊本細川藩の古文書に残されています。
石畳の側は大きな曽根石が・・ 雨の中、苔むした石畳みを歩く
行き倒れ巡礼供養碑と05/39 標識
この供養碑は江戸後期文政13年(1830)4月ここで
倒れた、武州足立群中ノ田村の供養碑です。
一里塚跡・・三十六丁一里(4km)ごとに街道の両脇に
塚を築かせた。 旅人が目的地に到達する距離の
目標になり、馬や駕籠の運賃の目安にもされていました。
一里塚跡から見上げる石畳み 一里塚方面を振り返る
靄がかかる石畳みを甫母峠へ向かて 前方に巨石、鯨岩と案内板が・・
苔むした石畳みを・・ 巡礼供養碑・・巡礼の旅に出る人は心に悩みがある人や
身体に病を持つ人が多かった。旅中急に容態が悪くなる巡礼もいた。村人たちは医者にも診せて看病し、不幸に
死亡すれば国許へ訃報を出し、地元の負担で手厚く
火葬して初七日の供養も怠らなかった。
甫母峠到着。ここまでが次郎坂。
この場所が次郎坂(北側)・太郎坂(南側)の境目です。 14時10分
甫母峠に可愛いお地蔵様
かって「ほうじ茶屋」があった広場には赤いよだれかけをした地蔵がお祭りされています。
甫母峠の地蔵は現代尾鷲市と熊野市の市境です。
遠くは大化の改新645年から天正10年(1582)まで、
紀伊と志摩との国境だったところ。
次郎坂・太郎坂の境目の広場は、【ほうじ茶屋】跡・
この茶屋がいつ開業していつ店をたたんだかは不明ですが、江戸時代ここを通行した旅人の道中日記にはすでに
茶屋があったと記されています。

明治29年頃まで続いていたとも言われています。
標識は13/39
甫母峠からの下り、太郎坂の古道 石畳みにどっかと根を張る大木の横を・・・
楯見ヶ丘に到着 楯見ヶ丘からの眺め。眼下にまぐろの養殖場が・・・
ズームで楯ヶ崎を望む。 楯見ヶ丘からの尾根歩き
急勾配を下ります。雨は止んできました。 26/39位置の標識
太郎坂最後の上りです。 急勾配を下る。
32/39位置 34/39位置を下る。
猪から田畑を守る、見事な猪垣の横を・・ ここの猪垣は熊野地方でも群を抜いて
見事なもので高さ2m〜3mあります。 
【猪の落とし穴】と呼ばれる縦横3m深さ3mの落とし
穴が築造され今も残っています。現在の猪は落ちた
ことがないそうです。
猪落としと見事な猪垣を振り返る。
  猪垣記念碑 寛保元年(1741)3月上旬から翌年の
2月までの1年がかりで築いたと記されています。
曽根次郎坂・太郎坂登り口到着です。
ここまで世界遺産道 16時14分
曽根次郎坂・太郎坂、世界遺産道碑を振り返る。 311号線へと、前方二木島湾
始まりもお墓、終わりもお墓です。 最後まで下りは急勾配
JR紀勢線が通っています。
急勾配を下りきると二木島集落 集落に下りてきました。
逢川には時々エイが上ってくるそうです。
水面に2匹のエイが戯れていましたが写真に
撮るこことができませんでした。
二木島町太郎坂広場に到着 16時36分
約5.7km、雨の中の歩きでした 



2017年12月9日 語り部と行く 熊野古道8回目 二木島峠〜逢神坂峠、今年最後の歩きです。
二木島峠、逢神坂峠越えルートはJRが貫くトンネルのほぼ真上をたどることになる。
二木島はかって風待港として賑わった港町で捕鯨の盛んな漁村でもあったそうです。
ゴール地点の新鹿海岸。
ここで昼食です。 雲一つなく晴天です。
お弁当を開く前に4匹の猫ちゃん
写真写せず弁当は猫ちゃんいきに・・・
私の昼食は持参のパン
新鹿海岸からバス移動約10分
国道311号線沿いに急な石階段が登り口。
登り口すぐに“巡礼供養碑”が・・ 12時43分
“巡礼供養碑”を後に古道へと・・
地図 熊野古道世界遺産の碑
杉、ヒノキの山林へと入っていきます。 猪垣 手前の野面積むは江戸時代
後方は明治に入ってから積まれたもの。
 古道わきの祠。
長い時代に風化されてしまったような、遠い
時間が流れたことを推測させてくれます。
整った石畳みを登る。国道311号線が通るまでは、
二木島から新鹿への生活道路になっていました。
道標04/30 猪垣が積まれた古道
06/30位置の古道、左側は切り立った崖 二木島峠到着 08/30  13時36分
二木島峠にも茶屋があったようですが、
今では判別しがたい。 標高240m
休憩後、新鹿方面・逢神坂峠へ
向かて出発です。
 なだらかな起伏の日当たりの良い古道が続く。 猪垣、このような山中にも田んぼが
あったのかと驚くばかりです。 
前方に巨木が・・・ この場所は逢神坂峠のハイライトと、語り部さんが・・
巨木の根元に、庄五郎善吉地蔵さんが鎮座
庄五郎善吉地蔵、反対側猪垣は水田跡 12/30 位置 苔むした石畳道を進む。
 整った石畳道 14/30 位置 逢神坂峠到着です。 14時11分
峠には昔大きな松の木があり、松の下には峠茶屋が
あったという、またこの付近は駕籠立場あったのでは
ないかと言われています。駕籠立場とは駕籠から
駕籠へお客を申し送った中継所。 
逢神(おおかみ)坂の地名の由来は、伊勢の神と熊野の
神が出会うところという意味でついたとも、
狼が多く出没したのでおおかみ坂と
名付けられたとも言われています。 標高290m
新鹿方面に向かて出発 14時19分
古道をひたすら下る  16/30 位置 18/30位置
19/30から24/30 までの下りは急坂の
ため要注意と・・・語り部さん
下ってきた石畳みを振り返る。
22/30 位置を下る。 24/30 急坂はここまで・・・
洗い越し・・・ 27/30 位置 下ってきた石畳みを振り返る。
29/30 位置まで下ってきました。 峠越え終了です。  新鹿側登り口の標識
竹林を抜けると・・ 峠越えの後の目に眩しい、
新鹿海岸の眺望が開けます。 
民家の庭に下りてきました。 峠越え最後に、橋間の庚甲様に旅の安全を感謝
越えて来た仁木島峠、逢神坂峠を遠望 二級河川湊川・前方新鹿港  ゴール 15時16分
 熊野市内ではこの古道が約3.2kmで最も長く、新鹿町と二木島町を最短距離で結んでいます。
国道が出来るまでは生活道路だったようです。



2018年3月10日、熊野古道 伊勢路9回目です。
今回は波田須の道・大吹峠を歩きます。波田須は秦の始皇帝時代に不老不死の薬を求めて徐福が上陸した伝説の里と伝えられてします。又伊勢路の石畳みでは最も古い鎌倉期の石畳、竹林古道大吹峠などを巡ります。今日は最高のハイキング日和です。
前回ゴール地点新鹿海岸で昼食です。 
山菜ご飯に牡蠣フライ
新鹿海岸 波打ち際
時折大きな波が押し寄せます。

新鹿海岸を後に国道311号線をバスで
波田須方面へ移動。 311号線から古道へと入る。
12時32分
311号線から続く古道・・・ 国道はぐるっとまいているので古道ルートは
かなりのショートカットになる。
民家の前を通って行くと・・・ こんもりと茂る森に入る。ここは鎌倉期に造られたと
いわれる立派な石畳みが80m残されています。
12時42分 
 この石畳みは重厚で大きく、敷き方も豪快で貴重な
歴史的文化遺産となっています。
古道にしっかりと根を下ろす巨木の横を進む
波田須の道は約300m 01/03の標識 立派な猪垣の横を・・・
波田須の道 02/03の標識 途中、新鹿湾を望む。
波田須神社   12時54分 波田須神社からの眺め
国道311号線へと下ります。 さらに坂を下って波田須の集落へ
熊野灘に向かう波田須の里は斜面に
へばりつくしょうにして民家と田畑が配され、
その間を曲がりくねった坂道が縫っている。
徐福の宮到着
その昔秦の始皇帝の命を受け、不老長寿の仙薬を求めて大船団を組み東方へ船出した。
途中台風に会い徐福の船だけこの地に流れ着いた。当時三軒の家だけ、三軒が交代で世話をした。
帰国を断念した徐福は永住を決意し、土木、農耕、捕鯨、医薬など中国文明を里人に教えてといわれています。
13時10分
 徐福の宮から下ってきた
波田須の里を望む
宮の傍らに不老長寿の天台鳥薬(てんだいうやく)
(くすのき科)暖地に生える高さ3mになる常緑樹。
早春薄黄色の小花を密生させる。根が薬用に用いられる。
徐福の宮をぐるっと一周できます。 二本の木が絡み合っています。 子宝の神とか・・
楠の巨木の傍に徐福の墓が・・・ 波田須の里から発掘された、秦の時代の半両銭波田須の里、村長さん宅に保存されているのを見せて頂きました。 
石垣上が村長さん宅皆必死に写しています。 桃の花が満開
村長さんにお礼を言って出発です。 波田須には弘法伝説も伝わっています。
山から清水がしたたり岩肌にぽっかりと開いた
穴に注いでいる場所が左側上に、弘法大師の
御足跡水といわれ、決して枯れることはなく、
そこに溜まった水は万病に効く霊水とされています。 
御足跡水近くに咲く、ボケツツジ すぐ傍に「おたけ茶屋」昭和の初めごろまで、この地に
茶屋があった。ここのおたけ婆さんが作るこけら寿司が
有名で婆さんの名が茶屋の名になったとか・・
茶屋の傍に咲く水仙 初めて見た色合いです。 古道分岐点の石標
斜面にへばりつくように建てられた民家の横を下る 関ヶ原の合戦にまつわる悲話を秘めた“勤慎忍”と
刻まれた巨石が、西丹後守屋敷跡に
ズームで・・仇討に来た夫婦を返り討ちにしてしまった
ことを自ら戒め「勤慎忍」と刻んだとか・・
熊野古道→に沿って農道を横切る。
古道のか傍らに行き倒れ供養碑が・・・ 波田須の里に別れを告げ国道311号線へと・・・
国道311号線を熊野方面に歩く 大吹峠登り口休憩所  14時03分
大吹峠登り口 熊野古道世界遺産道 大吹峠石碑  14時20分
01/14の標識 ごろごろした石畳みを進む
山に分け入ると間もなく道の両脇に竹林が現れる。
杉やヒノキが多い熊野古道にあって、このルートは
独持の風情を醸し出しています。
なだらかな上り坂
03/14標識 古道を大吹峠に向かて・・・
なだらかな上り坂を行くと20分ほどで大吹峠に到着
標高205m 14時36分ここには昭和29年頃まで
大吹茶屋があり、熊野古道を行く人々の休憩所と
なっていました。又、熊野街道では珍しく峠に孟宗竹の
竹林があり風情がある峠道になっています。 
大泊ゴール地点に向けて出発 14時45分 
斜面下のぬかるみは猪のお風呂場とか・・・ 07/14標識
うっそうとした木々に囲まれて山桜の巨木、
後1か月もすると満開に・・・
石畳みに絡み付く走り根
10/14標識  今は荒れ果てていますが、かっては
峠付近まで田んぼが作られていました。前方の
小屋も作業用に使われていたものだそうです。
斜面下にぼっかりと大きな穴が、深そう!! 
13/14標識 大吹峠も後100m 大吹峠終点地点到着 15時13分
大吹峠石碑 2班も到着です。 見通しのいい山の斜面をゴール地点へと
国道311号線に出てきました。 ゴール地点大泊側 石切り場到着 15時23分 



2018年3月31日、語り部と歩く 熊野古道10回目です。
石仏が励ます参道【観音道】を歩きます。観音信仰が盛んな時代は大吹峠を通らずに、道の傍らに西国三十三所の観音石像が立ち並ぶ観音道がよく使われていました。かつて、観音様の命日には多くの人が参り、お寿司やおはぎを売る店も出て大変な賑わいだったということです。
新鹿海岸でお弁当の昼食です。  新鹿海岸 ピンクに染まった山々を望む
山々に咲く桜は見ごろを向かえています。 42号線から清滝を望む
観音道地図 尾鷲から国道42号線を南下し、清滝を過ぎ、大泊の
海が見える国道の側に【観音道】の看板が立っています。
ここから1キロほど山道を登ると比音山清水寺
(通称泊観音)があります。 12時37分
 山道を入るとすぐに石仏が出迎えてくれます。
西国三十三所観音石像の第五番〜第十五番が並んでいます。
道中あっちこっちに石仏が立つ清水寺参道 急勾配なため、かなりきついです。
奉納右観音堂の石碑 石畳道の脇にも石像が立ち並び、心が和みます。
高低差350mの石畳を登る。 なだらかな清水寺参道
観音道 07/09道標 観音様へ6丁の石碑
道はよく整備され、石畳みは熊野古道に劣らないです。 04/09道標で小休憩
ふくろう岩と名づけられた大きな岩の麓に、
さまざまな表情の石仏が並んでいます。
ずーっと先まで続く石畳み
岩陰に佇む石仏 いかにも信仰の道にふさわしい風情を感じさせます。
ここにも・・・ 急勾配の石畳みを登ると前方に・・小さな祠が
木造の祠の中に自然石の馬頭観音が安置され、
右隣には第33番谷汲山華厳寺の観音像が立っています。
13時19分
自然石の馬頭観音像
あと一息 息がきれる頃、最後の石段に到着です。ここで道が
二つに分かれ左に行くと清水寺(せいすいじ)です。
石段を上りきり左へ400m行くと石垣に囲まれた小さな
広場があり、ここが清水寺(泊観音)。
清水寺の本堂がここにあったが、老朽化と台風により
破損したため撤去されています13時28分 
江戸時代初期慶安3年(1650年)作で
代官から寄進された泊観音地蔵2基が鎮座。
貴重な文化遺産となっています。
泊観音は岩の中
【泊観音縁起】によると大同4年(809年)坂上村麻呂将軍によって建立されたと記されています。 
古くから近郊近在の人々によって信仰されてきた泊観音であったが、昭和39年(1964)お参りする
人も少なくなり無住となった。この時、前立像の千手観音を麓の清泰寺へ移した。

その後二棟あった堂宇は崩壊し、平成26年3月瓦礫を撤去し更地に。観音堂跡に佇んでお祈りする
観音像がなく、有志により平成26年9月、千手観音像を岩窟の中に奉納安置。
庫裡は撤去はされていませんが、
荒れ放題です。
語り部さんから賑わっていた頃の写真をパチリと・・
第二次大戦中は武運長久を祈願する
人が絶えなかったそうです。
分岐点まで同じ古道を戻ります。 分岐点を大吹峠方面へと・・・大観師猪垣道
(大吹峠、観音道、猪垣へと通じる道とのこと)
ずーっと先まで続く猪垣 往時は【ねあらけ】といって毎年住民総出で
石垣の補修をしていたそうです。
ここの猪垣は総延長が十数キロもあり、かつては
かなりの隠田が作られていたようです。
大吹峠へ続く猪垣道ビューポイントで小休憩
大観猪垣道ビューポイントから鬼ヶ城跡
(こんもりとした山)と七里御浜を望む 14時14分
ビューポイント場所からずーっと
先まで続く猪垣を・・・
急勾配を下山 “蟻の熊野詣” 聖地をめざす人々の行列を
こうたとえた熊野三山詣。蟻の熊野詣再現です。
大吹峠到着  標高205m  14時42分 ルート横断する猪垣
前回登って来た古道を今回は下山です。
整った石畳みを大吹峠登り口へと・・・ コブシの咲く道を・・
大吹峠口の石碑が見えてきました。
14時58分
大吹峠口(波田須)休憩所が下に・・ 
最高の天気に恵まれ、約2時間20分の歩きでした。  



2018年5月12日、語り部と歩く熊野古道 伊勢路11回目です。今回は松本峠と花の窟、浜街道です。
松本峠への石畳道は波田須の道から泊観音へ詣る観音道と大吹峠を越えて熊野三山や那智山へ詣る伊勢路が登りの途中で合流しています。松本峠は、ほとんどの道に美しい石畳が残り、竹林に囲まれた峠では、等身大ほどの大きなお地蔵様が出迎えてくれます。松本峠を越えれば、浜街道を経て新宮まで峠越えはありません。かつての巡礼者が、七里御浜の向こうの新宮に鎮座する熊野速玉大社に思いを馳せたであろう場所です。

ゴール地点の七里御浜で昼食です。
いつもの定番紀州うめ鶏の照り焼き
松本峠地図 バスで松本峠登り口へ移動です。
登り口は42号線沿いにあります。 熊野古道 松本峠登り口です。12時40分
松本峠の石畳みは江戸時代のものです。 すぐに階段状の登りが・・・
江戸時代の石畳みは自然の石を使っています。 江戸時代の石畳・・階段状の石畳みは、
側面は見事な石垣で固められています。 
松本峠で一番大きな石が使われた石橋です。 石橋を渡る。
急坂は、石と石の間を隙間なく
詰めてあるそうです。 
休み石・・先人たちが旅の途中
休んだであろう休み石が・・・ 
平坦な所は間を広く取ってあります。
その為木々の根っこが石の隙間を這っています。
松本峠に到着、お地蔵様が出迎えてくれます。
(標高135m) 13時09分竹林に囲まれた峠です。 
松本峠のお地蔵様・・元禄の頃、鉄砲の名手が夜中に峠に差しかかると月下に得体の知れない物が立ちはだかってきた。思わず発砲し、命中したが近づいてよく見るとそれはこの峠に建つお地蔵様だったという。地蔵尊の足元をよく見るとその時の傷跡が今も残っています。  この峠にはかって二つの寺と茶屋があった。
寺では寺子屋が開校され、読み書きや算術も
教えていたと云われています。 
峠から鬼ヶ城跡方面に・・・ 鬼ヶ城跡へ杉木立の中を・・・
200m程で東屋が見えてきました。 東屋から、美しい曲線の七里御浜海岸を・・・
遠くに熊野三山を望む
反対側は大泊海岸・・
鬼ヶ城跡へは行かず、松本峠へと戻ります。 
松本峠から木本登り口方面へと下ります。
石畳を下って行きます。 明治時代の石畳・・・明治元年に大本と古泊の漁師が
鮪の水揚げに関する騒動を起こしました。この石畳は、
代官所が罰として漁師たちに築かせたものです。
木本への下りは整った石畳。
木本登り口到着 13時41分
木本登り口に見晴らし場・・・
梅の実がいっぱい実っています。 
見晴らし場から七里御浜・・獅子岩も・・ 下り道に赤い鳥居に、白龍大神・・
日蓮宗 妙見山 正法寺 民家が見えてきました。
道端にお地蔵尊が・・・何かいわれがあるようですが・・
説明は聞いたのだが、なんだったけ
標識に沿って花の窟方面へと・・・
笛吹橋を渡り・・・ 紀南ツアーデザインセンター 無料の休憩所です。
14時02分明治時代に木本(元熊野市)を代表する
林業家・初代奥川吉三郎氏の私邸だった、築130年の
木造民家を休憩所として利用されています。
お茶を頂きます。  お土産も販売されています。 お部屋内部
お庭からお部屋を・・・立派な欄間が・・・ ちょっことお庭を・・・
本町通り・・古い町並みや商店街をぶらぶら
眺めながら、ゴール地点花の窟へと・・・
昔は役所、今は雑貨店のようです。
本町通りにも、無料休憩所
熊野古道・おもてなし館
昔は銀行だった建物、今は衣料店として
活用されています。 
42号線沿いに、地震で隆起した岩が・・
穴は不尽物が雨で流れた。
42号線、鬼ヶ城跡への東屋が後方に・・・
ズームで東屋を遠望 42号線に出る道路の向こう側は七里御浜・・
前方に獅子岩が見えてきました。
巨岩「獅子岩」は高さ25mの国指定名勝記念物で世界遺産。
古くから隣の神千洞とともに熊野市山中の大馬神社の
狛犬とされています。 
獅子岩・・
海に吠える獅子岩は口を開けている狛犬
こちらの巨岩が、口を閉めている
狛犬とされています。
大馬神社の阿吽の狛犬を振り返る。
砂浜は歩きにくいです。 
45号線沿い 七里御浜を20数キロ行くと速玉神社、
那智大社、青岸渡寺へと向かっています。
コール地点 花の窟の御神体の
巨石(窟)が見えてきました。
春と秋に大綱を掛替える「お綱かけ神事」の
大綱が結んであります。
花の窟神社
手水所の横に丸い巨石 花の窟へと・・
日本書記に伝わる、イザナミノミコトが葬られたといわれる御陵で45mの巨石が御神体で社殿はありません。かっての自然崇拝の姿を今に伝える場所であり、世界遺産登録地です。 祭神 軻遇突智神(かぐつちかみ)
熊野市は、神話や伝説が豊富なところで、その代表的なものがここ「花に窟」です。
日本書記によると、皇室の祖先とされる女神天照大神の母神であるイザナミノミコトは
火の神カグツチ神を産んだ時火傷を負って死にこの地に葬られたと・・・
御神体の窟を見上げる人々が・・・
窟山頂から花を飾った大綱がかけてあります。
花は枯れ落ち、今は扇がなびいていました。
「窟の山頂より架け渡すお綱は、神と人をつなぎ神の
恵みを授けて下さるお綱なり」と記されていました。 
15時22分 語り部と歩く伊勢路 11回目終了



2018年語り部と歩く熊野古道・伊勢路12回目最終は1泊2日です。
風伝峠は、海辺と山村を結ぶ要路でした。歩き始めの尾呂志(おろし)地区は田園と山並みが美しい山里です。古道は苔むした石畳が続き、巡礼者だけでなく海の幸を山里に届ける人や、山の幸を海沿いの里に届ける人が行交った往時を思わせられます。今は旧国道で何か所か寸断されています。
前回ゴール地点、花の窟神社で、何時もの
紀州うめ鶏の照り焼きと筍ご飯の昼食です。
昼食後、一応無事を祈願してお参りです。
イザナミノミコトが葬られています。 風伝峠地図
311号線、尾呂志(おろし)バス停近くが、
風伝峠・尾呂志登り口です。 
田園の小道を風伝峠へと・・・
風伝峠の麓では、秋から春にかけて、海側と山側の
気温差が大きな季節の早朝に、山を包み込むようにして
向かってくる巨大な朝霧(風伝颪)が見られるそうです。 
風伝峠への登り口
01/15の標識 茶屋跡・・今はミョウガが茂っています。
古道傍らに水子地蔵が 02/15位置を歩く
古道傍に咲く花ミョウガ 古道の脇に石積みの住居跡。
かつては「孫兵屋」と呼ばれる寺子屋もあった。
杉林の中に苔むした石畳道が続きます。
石質は神木流紋岩だそうです。
古道は旧国道で寸断されています。
旧国道を風伝峠へと進みます。 ここにも花ミョウガが・・・
旧国道から古道へと・・・ 古道ちょっと進むと建物が・・・
舗装された旧国道に出てきました。 茶屋跡だそうです。
風伝峠の古道は旧国道で何か所も寸断されています。 
風伝峠の石碑が旧国道にポツンと・・・
旧国道を風伝峠に向けて・・・ 旧国道から再び林道を、風伝峠へと・・・

少し上がると風伝峠到着  14時18分

法界塔には、文政4年(1821)と刻まれています。

  風伝峠・・
巨木の下に法界塔豊臣秀吉等の
奥熊野攻めなど様々な歴史的事件において、
戦略の拠点となった場所です。
風伝峠から元の旧国道へ戻ってきました。 風伝峠下り、311号線方面へと・・・
石畳が続く古道を下ります。 下に旧国道が見えてきました。
何回旧国道を横切るのか・・ 旧国道から古道へと・・・
根がむき出しの急坂を下る。 歩きよい平坦な古道
12/13の標識 後200m 緑が茂る中を・・・
14/15の標識 橋を渡り
バスが待つ、311号線到着 風伝峠登り口に右、通り峠の標識
明日は通り峠を歩きます。 
道の駅 七里御浜 黒潮橋を渡り、七里御浜へ・・・ 橋から道の駅と七里御浜を望む
熊野市から紀宝町に至る約22Km続く日本で一番長い砂礫海岸で、これまでに「日本の渚百選」や「21世紀に残したい
自然百選」など全国の景勝地と並んで選ばれています。その昔、熊野詣でをする人々にとっては「浜街道」として、
西国三十三所を目指す巡礼者が多く歩いたことから「巡礼道」とも呼ばれ、信仰の道としての役割を果たしていました。
海岸には、熊野川を経てたどり着いた様々な種類の石を見ることができます。また、春から夏にかけてアカウミガメが上
陸する地として知られています。波打ち際まで行ってみました。時々大きな波が打ち寄せます。

 熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3社を「熊野三山と呼びます。
熊野三山の一つ熊野速玉大社へと・・
熊野三山の一つ熊野速玉神門を・・・
ご祭神・熊野夫須美大神(いざなみのみこと)
神門前に、御神木 梛(なぎ)の大樹。
16時13分
境内にそびえるご神木「梛の大樹」は、国の天然記念物として指定されています。平清盛の嫡男・重盛の手植えと
伝えられ、樹齢は千年を越えているとか。ナギは"凪(風が止んで波がなくなり、海面が穏やかになった状態)"
に通じることから、海上安全や良縁結びの信仰があつい。昔は、嫁いでいく娘の鏡の裏などにこの葉を忍ばせ、
無事に添い遂げられるように祈ったと伝えられています。一枚拾ってきました。
神門前に、熊野宝神館 神門横に大禮殿
速玉大社神門 神門から、奥御前と三神殿を・・・
ワイドで・・結宮、速玉宮、奥御前、三神殿、上三殿、八社殿と並んでいます。
拝殿 拝殿から本殿、結宮・速玉宮に詣でます。
奥御前・三神殿 参集殿
新宮神社 恵比寿神社とお詣りです。
熊野速玉大社前に川原家横丁・・・お土産とちょっとした
軽食が食べられるお店が並んでいました。
川原家横丁前のアジサイ
今晩宿泊地 ホテル浦島へと・・・ ホテル浦島には、対岸勝浦港より
亀の船に乗って行きます。
紺碧の海と緑豊かな山に囲まれた自然を身近に感じるリゾートホテルとなっています。
「ホテル浦島」は4つの巨大なホテル棟から成り、カメの船が到着する所が「本館」。
山の上に見えるのが「山上館」です。「日昇館」、「なぎさ館」と呼ばれる巨大なホテル棟があります。
  ホテル浦島 5分程で到着です。 17時27分
ホテル浦島 日昇館 フロント お部屋への廊下
お部屋 7階8773号室です。 館内ぶらぶらです。 長〜い長いエスカレーターに
乗って山上館へと・・・全長154メートル。
階段数で言えば、428段分に相当するそうです。
案内図を参考に浦島神社へと・・・ 山上館手前から浦島稲荷神社へとぶらぶらです。
赤い鳥居が続いています。 狼煙跡・・外国船が通ると知らせていた狼煙の跡が・・・
浦島神社 鳥居 前方に赤い太鼓橋が・・・
浦島神社 拝殿 傍に梛(なぎ)の木が・・・
展望台から勝浦湾と妙法山方面に沈む夕日を・・・
一番高い山が妙法山、斜め下が
那智大社・青岸渡寺方面です。
反対側は太平洋・・小さな島は「山成島」
平家物語で屋島を逃れた小松三位中将平維盛は紀州の高野山に出家し、本宮、新宮、那智と熊野三山の参詣を済ませ、
浜の宮という王子の社前より一艘の小舟で山成島に漕ぎ寄せて岸に上がりて近くの大きな松の幹を削って辞世の
和歌を残し入水したと云われています。【故郷に いかに松風根むらん、沈む我が身の行くしらず】と・・・
長〜いエスカレーターの下り・・・時間は6分程
浦島神社参拝後、夕食まで時間があるので温泉探索です。
忘帰洞への入口
忘帰洞への通路は岩肌が見えます。 人の入ってないところを狙ってパチリと・・・
黒潮の荒波が聞こえる絶景洞窟温泉「忘帰洞」
カメラ禁止の張り紙が・・・仕方なく写真パネルを・・・
帰るのを忘れさせてくれるほどの気持ち良さから
この名が付いたとか・・・ 
ホテル廊下にカウンター席で
お酒が飲めるスペースが・・・ 
磯の湯への廊下 磯の湯 (かけ流し) 誰も入ってないです。
玄武洞へと続く廊下 玄武洞(かけ流し)誰も入ってないのでパチリと・・・
もうちょっと中へ入ってパチリと・・ 夕食はバイキング 
1日目無事終了 忘帰洞に入浴し、就寝です。



2018年5月26日〜27日、熊も古道12回目最終2日目です。
今日の行程は熊野那智大社、熊野古道通り峠、丸山千枚田、熊野大社へと・・・
朝食はバイキング 果物とヨーグルトは多めに・・・
ホテル浦島乗船口玄関 ホテルにお別れ勝浦港へ・・・
勝浦港到着 熊野那智大社へと・・・
467段におよぶ石段の上に建つ6棟からなる社殿は、標高約330mに位置し、夫須美神(ふすみのかみ)を
御主神としてそれぞれに神様をお祀りされています。伊弉冉尊(いざなみのみこと)とも言われる夫須美神は、
万物の生成・育成を司るとされ、農林・水産・漁業の守護神、縁結びの神様また、
諸願成就の神としても崇められています。
 鳥居をくぐると社殿は修復中です。 朱塗りの社殿を見ることができません。
社殿は、仁徳天皇の御世(317年)に現在の位置に創建され、平重盛が造営奉行となってから
装いを改め、やがて織田信長の焼討に遭ったのを豊臣秀吉が再興しました。
徳川時代に入ってからは、将軍吉宗の尽力で享保の大改修が行われています。
内部は朱塗りで美しいです。
二礼二拍手一礼でお詣りします。
那智大社宝物殿
八咫烏(やたがらす)は熊野の神様のお使いである、
三本足の烏です。より良い方向へ導く、お導きの
神様とされ、熊野那智大社の境内にある
御縣彦社(みあがたひこしゃ)で
お祀りされています。正面には八咫烏の銅像が・・・。
拝殿前に巨木が・・・
樟霊社(しょうれいしゃ)・・・・平重盛の御手植えと
伝わっています。樹齢約850年の樟を御神木として
お祀りされています。幹が空洞化しており、
護摩木(300円)を持ってお入りください。と・・・ 
中に梯子が・・・
空洞化した幹から見上げる・・ 樟霊社・・幹上から眼下を・・・
証誠殿(那智大社本殿) 隣にある、青岸渡寺へと・・・こちらも修復中です。
那智山青岸渡寺は、一千日(3年間)の滝篭りをされた花山法皇が、永延2年(988)に御幸され、
西国三十三ヶ所第一番札所として定められました。如意輪観世音像は、仁徳天皇の時代(4世紀の頃)、
インドから那智に渡来した裸形上人が、那智滝の滝壺で見つけ、本尊として安置したと言われています。
如意輪観世音を祀る本堂は、天正18年(1590)に豊臣秀吉が再建したもので、桃山時代の特徴を色濃く残しており、
2004年7月には、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されました。
さすが青岸渡寺、
厳かで気品が漂っています。
 本堂後方には、那智の滝との調和が美しい
朱色の三重の塔がそびえ立っており、
必見のフォトスポットとなっています。
ズームで那智の滝を・・・
「那智の滝」は、高低差133メートル
つつじが咲く石垣の傍を通り集合場所へ・・
下り途中に青岸渡寺の朱塗りの仁王門 下り途中、観世音菩薩さまが・・・

通り峠と丸山千枚田地図

昨日歩いた風伝峠の麓で、本宮へ向かう本宮道と
吉野方面へ向かう北山道に分かれます。
私たちは通り峠、北山道へと向かいます。
世界遺産登録の対象ではありませんが、
古くから生活道として使われ、海の幸と
山の幸が行き交った道です。 11時21分   
みやげ店が並ぶ石段を下ります。
通り峠登り口
コンクリートの坂を登るとすぐに石ころが
ごろごろしたヒノキ林に入る。
少し狭いですが、約800mの
石畳道が残っています。
江戸道。 石質は神木流紋石 明治30年頃まで商人が多く通っていた。
06/21位置 
土砂崩れの跡に橋が架けてあります。 炭焼窯の石積みが残っているなど、かつての山の
暮らしがうかがえます。100年前まで使われていたと。
古道脇に真っ赤なキノコが・・・ 両脇をシダに縁取られた石畳道を上っていきます。
七曲りを登る。
峠からは太平洋が望めたそうですが、
今は木々が生い茂り望むことができません。
ちょっとゆっくりしていると前を
行く人の姿が見えません。
大急ぎで追っかけます。 通り峠到着。12時11分
気持ちの良い風が吹き抜けます。風がよく通るので
「通り峠」となったと、語り部さんが・・標高390m
風通しの良い峠に、嘉永4年(1851年)建立の
子安地蔵が祀られています。
子安地蔵 赤ちゃんを抱いたお地蔵様。
通り峠東屋で小休憩後、出発です。 Sの字を描くように下って行く。
18/21位置を下る。 県道に出てきました。
県道をしばらく歩くと・・・ 丸山千枚田展望台に到着。 12時40分
山腹に築かれた約1平方kmの見事な棚田と
山並みが一望できます。慶長6年(1601年)には
2,240枚の水田があったと記録されています。
今はオナー制になっているそうです。
1年間3万円で田植え、稲刈りなどが体験できるそうです。
展望台からワイドで・・ここからの千枚田の眺めは素晴らしいです。
千枚田へと下っていきます。 丸山千枚田の高低差は150m。
今は1340枚あるそうです。
丸山千枚田の中の道を歩きながら、里山の暮らしが息づく風景を堪能することができます。
あぜ道にアジサイが・・・千枚田とアジサイの風景 千枚田の中ほどにある見晴らし台へと下っていきます。
見晴らし台にて昼食です。
13時16分
棚田の田んぼの中で一番小さい田んぼ。
1340枚の一枚です。三株植えてあります。
三株で茶碗二杯のお米が取れるそうです。 
棚田に咲くささゆり 大石・・丸山千枚田の景色に大きな
安定感を与えてくれます。
アジサイの咲く道を・・・ 語り部さんが振り返って下さいと・・
最後に千枚田を望む。
千枚田・通り峠入口」到着
バスが待ってくれています。  14時13分
車窓・・北山川と熊野川の合流地点
熊野本宮大社到着 お詣りです。
参道入り口の鳥居は、神が宿る神域と人間が住む
俗界との結界を表しているそうです。
また参道の中央「正中」は神様のお通りになる道なので、
右端を登り、左端を下るのが作法だそうです
杉木立の中、「熊野大権現」の奉納幟が立ち並ぶ
158段の石段を、一歩一歩上るにつれ心は静まり、
神域へと近づいていくそうです。
正面に神門が見えてきました。 熊野本宮大社 神門 正式参拝です。
宮司さんにお祓いを受けます。 
境内は撮影禁止のようです。知らずにワイドでパチリパチリと・・・
左から・・・西御前(結宮・第一殿) 夫須美大神
中御前(結宮・第二殿) 速玉大神
証誠殿(本宮・第三殿) 家津美御子大神(素戔嗚尊)
東御前(若宮・第四殿) 天照大神 とお祀りされています。
宝物殿 参拝後は祈りの道へと・・・
参拝後は祈りの道を下ります。 15時53分  車窓・・・対岸に祝2050の文字が・・・
 語り部と歩く 熊野古道 伊勢路編 12回無事終了で〜す。
先人たちが歩いた道を、今こうして歩いている・・・私がいなくなっても、幾数人の人たちが
歩み続けるかと思うと複雑な気持ちに襲われます。



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