2013年12月4日~2泊3日でお遍路の旅に出かけました。2004年に徳島県を少し遍路し、そのままになっていたのを、今回逆打ちで・・・
四国八十八ヶ所霊場の全行程はおよそ1460キロ、四国遍路とは、今からおよそ1200年前に弘法大師(空海)が四国の地に開かれた修行の道場ですが、 歩き遍路では弘法大師自身が修行された足跡を辿り、道中にある寺院や遺跡を参拝することで、煩悩を消していき、本当の自分に目覚め、心身を磨く旅ですが、私たちは、車で遍路旅に出ることにしました。“のぞかな田園風景、荒々しい太平洋、山間深部の霊山、穏やかな瀬戸内の海・・・四国四県で風景や地形はさまざまで変化に富んでます。四国の大自然を季節の移り変わりとともに肌で感じながら ・・・
逆打ち(ぎゃくうち)88番から1番へ巡礼することで、順打ち3回分のご利益があるとか。

        四国全体図と掛け軸・伴衣前後衣
 2016年4月1日満願です。 12年かかりました
人間の世界ではない空間 高野山は聖地である、千数百年にわたりそう信じられてきました。

高野山の信仰の中心であり、弘法大師さまが御入定されている聖地で中でも「一の橋」から「弘法大師の御廟」に向かう参道に沿っ杉の木と無数の石塔が林立する「奥の院」は 人間の世界ではない言われています。

一の橋はその「死者の世界」の結界の入り口にあたる。
僧たちはそこに足を踏み入れる時必ず手を合わせ祈りを捧げます。 
高野山の入口にそびえ、一山の総門である大門 奥ノ院への入口
高野山奥の院 それは 
御廟の奥の岩室で今も生きて瞑想を続けていると信じられている弘法大師の 存在と
同じように 過去と現在、そしてこの世と異世界を超越し それらが交錯する空間である。

(いおうざん へんしょうこういん おおくぼじ)

所在地:香川県さぬき市多和兼割96
電話:0879-56-2278


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)
矢筈山(788m)の東腹にある大窪寺ここへくるまでの山の紅葉は素晴らしかったです。・・・・
寺まで行く階段の横に「88番結願所」の石標が立っていて、その前に佇んで感慨深げに石標を見つめている遍路がいたが、私たちはここから始まり・・・・
養老元年(717)行基が草庵を建立したのが始まりとされている。弘仁7年(816)に、弘法大師が奥の院胎蔵ヶ峰で「虚空蔵求聞持法」を修し、結願の地と定めたといわれている。天正の兵火や明治の大火災といった大災厄に見舞われるが、そのたび再興され、今も満願成就を願う巡礼者の訪れを静かに待っている
 
 山門(二天門)  本堂の後ろには矢筈山がそびえている。
本堂後に多宝塔がくっついているような景観で多宝塔の部分は奥殿と呼ばれ、
本尊の薬師如来(病気を治す仏様)が安置されている。
 大師堂はここから入っていきます。  
遍路は砂場めぐりもできます。
 弘法大師像
境内から仁王門を・・・
仁王門に結ばれた大きな草履 
 仁王門
   長尾寺まで約17.1km


(ふだらくさん かんおんいん ながおじ)

所在地:香川県さぬき市長尾西653
電話:0879-52-2041

【本尊】聖観世音菩薩(苦難を除く仏様)
琴平電鉄長尾駅から5分ほどの距離にあり寺の周りは商店街です。
町の中にありながら落ち着いて心やすらぐ境内です。
天平11年(739)、行基が柳の木で聖観音菩薩像を彫像し本尊として安置。法相宗を開基したと言われています。その後、弘法大師が唐に出向く前に このお寺を訪れ、年頭七夜に渡り護摩祈祷を修法して国家安泰と五穀豊穣を祈願され、再びこの地を訪れた大師は、「大日経」を一石に一字ずつ書写し 供養塔を設立し、真言宗に改宗。
 
境内の中に駐車場があります。
本堂 本尊・聖観世音菩薩(苦難を除く仏様)
大師堂 昼食・・・
 ご近所の人が集まるようなお店で「しっぽくうどん」を頂きました。野菜が沢山入り、
トロミがありとっても美味しかったです。またまたすごく安いです。500円でした。
 志度寺まで約7km


(ふだらくさん しどじ)

所在地:香川県さぬき市志度1102
電話:087-894-0086


【本尊】十一面観音(災難除けの仏様)
瀬戸内海の支度湾のすぐ近くにあるお寺です。磯の香が漂ってきそうです。
大きな五重塔がこの寺の目印です。
志度寺は 推古33年(625)に 海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)という尼僧が霊木で十一面観世音菩薩を刻み、草庵に安置したのが始まりとされています。 寺には龍神に奪われた藤原不比等の宝珠を、妻の海女が命と引き換えに取り戻したという「海女の玉取り伝説」が伝わっています。不比等は 海女の墓を建立して「死度道場」と名付けましたが、持統7年(693)に息子の房前により「志度寺」と改名されたといわれています。
 
門前町の突き当たり、運慶の力作、仁王像と巨大わらじが迎えてくれる、全国的にも珍しい
三棟造りの堂々とした佇まい。本堂とともに讃岐藩主、松平頼重により寄進。
 仁王門から本堂への参道には海女を供養する石塔などが立ち並んでいました。
青空に映える朱塗りの五重塔    重要文化財に指定されている本堂・・・
本尊・十一面観音
(災難よけの仏様)
 大師堂 大師四国八十八ヶ所図 
   八栗寺まで約8.1km


(ごけんざん かんじざいいん やくりじ)

所在地:香川県高松市牟礼町牟礼3416
電話:087-845-9603

【本尊】聖観世音菩薩(苦難を除く仏様)
八栗山があるのは五つの峰の五剣山(標高375m)。現在峰の数は四つ半でちょうど屏風を立てたようである。これは地震で一つが崩れてしまった為だという。八栗山までケーブルを利用して上がっていきます。
屋島の東、源平の古戦場を挟む標高375mの五剣山の8合目にあるお寺です。
天長6年、大師がこの山に登り 求聞寺法を修めた時に、五振りの剣が天に振り注ぎ、山の鎮守蔵王権現が現れ「この山は 仏教相応の霊地なり」と、告げられたので、大師はそれらの剣を山中に埋め鎮護とし五剣山と名づけられたと言うことです。
 
瀬戸内海国立公園五剣山 
八栗登山口駅から五剣山を望む
ケーブルで上がっていきます。
 山頂駅から八栗寺への道端の紅葉 八栗寺の本坊と紅葉を見上げる
 多宝塔はカラフルで美しいです。 背後に山が迫っている本堂 
本尊・観世音菩薩 
 大師堂は団体さんのお参りでいっぱい  ケーブルから市街地を望む
   屋島寺まで約6.8km


(なんめんざん せんこういん やしまじ)

所在地:香川県高松市屋島東町1808
電話:087-841-9418

【本尊】十一面観世音菩薩(災難除けの仏様)


屋島ドライブウエイ(有料610円)を走り屋島の山頂にある屋島寺へ。源平合戦の歴史を持つ屋島。山頂は北嶺と南嶺に分けられる。その南嶺の中央部に屋島寺がある。
弘仁6年(815)には、嵯峨天皇の勅願を受けて弘法大師が現在の南嶺に伽藍を移し、十一面千手観世音菩薩を刻んで本尊とし安置。大師は屋島寺の中興開山の祖として仰がれています。現在のご本尊・十一面千手観音坐像は天暦年間に造られたもので、国指定重要文化財となっているそうです
 
屋島ドライブウエイから瀬戸内海の眺めは美しい・
源平古戦場展望台からの眺め
屋島寺・・東大門
東大門からの境内 本堂・・十一面千手観音
 大師堂
参道からの四天門 
 今晩のお宿は屋島山頂の望海荘ですが、朱印時間が十分あったので83番一宮寺へと・・・
素泊まり予約なので2年前まではサンマルク店(現在のお店の名前分らない)で夕食です。 
サラダ・スープ・パンは食べ放題です  パスタ
 鶏肉の香草焼き   ベランダからの眺めは最高です。寒いです。 
 素泊まり5775円 山側のお部屋予約だったのが、私たち2人だけ?・・・
宿泊代8150円の素晴らしい夜景が望めるお部屋に宿泊することが出来ました。 ラッキー
2013年12月5日、遍路の旅2日目です。 
ホテル望海荘の展望台から 早朝の瀬戸内海の眺め 晴天です。
ホテル望海荘展望台で記念写真  ホテル望海荘展望台にたぬきが・・・ 
   一宮寺まで約16.6km


(しんごうざん たいほういん いちのみやじ)

所在地:香川県高松市一宮町607
電話:087-885-2301

【本尊】聖観世音菩薩(苦難を除く仏様)

一宮駅のほど近い場所に位置する一宮寺。土地の人々に親しまれている印象のお寺。山門横の道路沿には高松南高校があり校舎からはにぎやかな声が聞こえてきそうな気がします。
大宝年間(701~703)に法相宗の義淵僧正が創建した大宝院は、諸国に一宮が建立されるようになると、讃岐国一宮の田村神社の別当寺となり、義淵の弟子、行基により一宮寺と改められた。その後、大同年間(806~810)に弘法大師が聖観世音菩薩を刻み本尊として安置し、宗派も真言宗となる。延宝7年(1679)には、高松藩主松平頼重により別当職を解かれ、神仏は分離し建物も移されている。
 
一宮寺・西門 本堂・聖観世音菩薩
大師堂 大師堂内部・・厳粛な雰囲気が漂っています。
 新しい護摩堂と紅葉が見事です。 結婚式を目前にして急逝した若き二人の供養と
来世で結ばれることを祈念し植樹された槇
夕食を取り再度、屋島ドライブウエイ(有料610円)を走り屋島の山頂にある望海荘へと急ぎます。
 根香寺まで19.4km


(あおみねざん せんじゅいん ねごろじ)

所在地:香川県高松市中山町1506
電話:087-881-3329

【本尊】
千手観世音菩薩(現世利益の仏様)

五色台の青峰にあるのが根来寺。石段を下がって又上がるというユニークな地形をした境内の奥に本堂がある。この本堂は回廊式になっています。また、本尊を刻んだ木が香気があったので根来寺になったとか・・・・・寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)に花蔵院を創建し、五大明王を祀ったという。その後、智証大師が天長9年(832年)に千手観音を祀り千手院を創建し、この2院を総称して根香寺と呼ばれるようになったという。戦国時代には兵火にあい衰微し、高松藩初代藩主松平頼重が再興した
根来寺 仁王門 仁王門から石段を下ります
大欅 下って上がった上が本堂
万体観音堂を回り本堂へと
万体観音堂門から本堂を 
  本尊・千手観世音菩薩
  大師堂
根来寺の境内に牛鬼像・・・山中に牛鬼という
怪物が住み村人を困らせた。根来寺の本尊に
祈願して牛鬼を射倒したとか・・・ 
   白峯寺まで約14.5km


(りょうしょうざん どうりんいん しろみねじ)

所在地:香川県坂出市青海町2635
電話:0877-47-0305

【本尊】千手観世音菩薩(現世利益の仏様)

白峯山は五色台の中の白峯山(337m)の中腹にあります。白峯寺は木々に囲まれた静寂の中にあります。天皇寺に安置されていた崇徳上皇の遺体はここ白峯寺に運ばれ荼毘にふされた。現在も御領が残っています。
五色台は、黄峯・白峯・赤峯・青峯・黒峯からなる霊峰で、その中の白峯山に白峯寺があります。弘仁6年、大師が、白峯山の山頂に、如意宝珠を埋め井戸を掘り、衆生済度を祈願し、堂宇を建立。後に智証大師が、霊木で千手観音像を彫造し、これを本尊にしたと伝えられています。
 
 山門前にに弘法大師像 白峯寺・七棟門 
山門から護摩堂を この石段を上がると、本堂、大師堂があります。
 本堂  本尊・千手観音 大師堂 
 薬師堂 刺使門をくぐると崇徳上皇の
頓証寺殿があります。 
  崇徳上皇頓証寺殿
都では異変が相次いだため、後小松帝は上皇の
霊を祀る法華堂に「頓証寺殿」の勅額を奉納。
崇徳天皇御陵 
  国分寺まで約8km


(はくぎゅうざん せんじゅいん こくぶんじ)

所在地:香川県高松市国分寺町国分2065
電話:087-874-0033

【本尊】十一面観世音菩薩(災難除けの仏様)


他の国分寺と同様聖武天皇の勅命によって建立された国分寺。松並木に彩られる国分寺。松に囲まれた仁王門から境内に入ります。
寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩が巨大な十一面千手観音像を刻み、本尊としました。その後、弘仁年間(810〜823)に弘法大師が霊場に定めますが、「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失。藩主・生駒氏や松平氏によって再興され、今に至ります。
 
仁王門のまえにはきれいな松が
松並木と長い参道横には四国ミニ88ヶ所が
願掛け金箔大師 願掛け不動明王
 お願い弁財天・・・さぬき七福神の中で
紅一点の「弁財天」がある。美・徳・福にご利益が。
 本堂 本尊・十一面千手観音
 大師堂・・多宝塔かと見間違うような二重の塔で鉄筋コンクリート新しい建物。
千体地蔵も安置されている。
 天皇寺まで約6.7km


(きんかざん こうしょういん てんのうじ)

所在地:香川県坂出市西庄町天皇1713-2
電話:0877-46-3508

【本尊】十一面観世音菩薩(災難除けの仏様)


天皇寺の付近は人影もなく森閑としている。松の緑に白峯宮の赤い鳥居がくっくりと映えて美しいです。
天平年間に金山の中腹に、行基菩薩によって開創され、弘法大師によって荒廃した堂舎を再興されている。保元元年(1156)7月、崇徳上皇(天皇在位1123〜41)は「保元の乱」に敗れ、京都・知足院に入られて落飾された。直後の同月23日、上皇は讃岐国に遷幸されるよう勅命があり、末寺の長命寺本堂を皇居と定められた。上皇は、阿弥陀如来への尊崇が深く守護仏とされていたが、長寛2年(1164)御寿46年で崩御された。二条天皇(在位1158〜65)は、上皇の霊を鎮めるため崇徳天皇社を造営
 
天皇寺 石碑 天皇寺境内と駐車場
本堂・ 本尊・十一面観音
讃岐に流されていた崇徳上皇の死を都に
伝える間、柩はこの寺に安置されていた。
大師堂
 白峯宮の赤い鳥居・・・保元の乱で讃岐へ流された崇徳上皇は、9年の寂しい歳月を
過ごしたあと、長寛2(1164)年の夏、府中鼓ヶ岡(坂出市府中町)の木の丸殿で崩御。
二条天皇は崇徳上皇の霊を慰めるため白峰宮を建てた。
 郷照寺まで約7.5km


(ぶっこうざん こうとくいん ごうしょうじ)

所在地:香川県綾歌郡宇多津町1435
電話:0877-49-0710

【本尊】阿弥陀如来(極楽往生を約束する仏様)


宇多津の港を見渡す青野山の山麓にあるため、石段を登って行くと急に視界が開け瀬戸内海にかかる瀬戸大橋の眺望が見事である。往時から港町として栄え、「四国の正面玄関」とでもいえる場所なので、高僧・名僧との由縁が深い霊場である。
神亀2年、行基菩薩によって開創された。行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され、「仏光山・道場寺」と称した。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残である。その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」としていまも広く信仰されている。四国霊場で唯一「時宗」の霊場である 
車で郷照寺山門をくぐります 駐車場から
本堂・ 本尊・阿弥陀如来厄除けの
お寺としても有名です。
本堂の天井には種類豊富な花が・・・
大師堂は階段の上  大師堂
大師堂石段上から瀬戸内海が眺望できます。 万躰観音洞・大師堂左手の地下回廊。
全国の信者が奉納した30,000の観音小像が
ぴっちりと祀られている。
   道隆寺まで約7.6km


(そうたざん みょうおういん どうりゅうじ)

所在地:香川県仲多度郡多度津町北鴨一丁目3番30号
電話:0877-32-3577

【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)

多度津駅から歩いて15分程のところにある道隆寺。寺の周りは田畑の静かな環境で、昔このあたり一帯は和気道隆(金倉寺を開基した和気道善の弟)の、桑園であったという。 仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。創建ころのこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったようである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養すると、不思議にも乳母は生き返ったという。 
仁王門 仁王門を入るとゆったりとした広い境内。
参道横には沢山の観音像が並んでいます
大師と衛門三郎の像 二重塔・弘法大師千百五十回忌塔
 本堂には桑の木で刻んだ薬師如来が安置  
本尊・薬師如来
 本堂から山門を・・
 大師堂
境内に沢山の鳩、近づいても逃げないのでお菓子を・・
一斉に食べてます。 
   金倉寺まで約3.4km


(けいそくざん ほうどういん こんぞうじ)

所在地:香川県善通寺市金蔵寺町1160
電話:0877-62-0845

【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)


金倉寺は金蔵寺駅から300mnところにあるが、町のざわめきとは別世界のような閑静なお寺です。金倉寺は、弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖「智証大師」が誕生した地。縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となりました。その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に。「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんだ寺名となったようです。 
金倉寺境内
智証大師像
本堂 本尊・薬師如来 大師堂
    善通寺まで約4.6km

 私たち含めて4人の宿泊客にはもったいないような大きな浴槽にたっぷりのお湯 その上温泉です。
ゆっくり浸かって就寝です。明日6時から御影堂(大師堂)で朝のおつとめです
  善通寺宿坊・いろは会館  宿泊したお部屋です。
 善通寺 宿坊 いろは会館 
夕食 精進料理と思っていたら、お刺身も
魚もあり ごく普通の夕食でした


 お鍋には豚肉も入っています。 
                                  12月6日 遍路の旅 3日目です。
朝6時から御影堂で朝のおつとめ40分です。上着を着ないまま行ったら寒くて寒くて40分がすごーく長く感じました。おつとめの後は「戒壇めぐり」です。御影堂地下に設けられている戒壇めぐりをして真の闇に包まれる体験をしました。左手を壁に這わせながら必死に歩きま。前を歩く人の姿さえ見えない。距離感もつかむことも出来ず、おぼつかない足取りで暗闇を歩いていると、やがてぼんやりとした明りが見えてくる。そこには祭壇があり、ご真言を唱え再び暗闇を歩く。出口が近づき外の光が見えた時は心底ほっとしました。


(ごがくざん たんじょういん ぜんつうじ)

所在地:香川県善通寺市善通寺町3-3-1
電話:0877-62-0111

【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)


善通寺は町中にあり、香色山の東麓に近い。総面積約45,000平方メートルに及ぶ広大な境内は、「伽藍」と称される東院、「誕生院」と称される西院の東西二院に分かれています。金堂、五重塔などが建ち並ぶ「伽藍」は、創建時以来の寺域であり、御影堂を中心とする「誕生院」は、お大師さまが御誕生された佐伯家の邸宅跡にあたり、ともに弘法大師御誕生所としての由縁を今に伝えています。
高野山、東寺とともに、大師の三大霊場の一つです。境内に入ると敷地の広さに驚きます。うっかりすると自分がどこから入ってきたのかもわからなくなりそうです 
善通寺 済世橋 正覚門から境内を・・・
前方、御影堂と聖霊殿を結ぶ渡り廊下 中門から金堂へと
 金堂  本尊・薬師如来
五重塔・いろは会館の室内四季折々の
五重塔の写真が飾られていました。 
 五百羅漢
 仁王門
 仁王門の先は御影堂 御影堂内部 朝おつとめをした内部 
 御影堂 弘法大師生誕の場所。 
地下には戒壇めぐりが
境内から正覚門へと、その先  
済世橋を渡り駐車場へと 
  甲山寺まで約 1.4km


(おうざん たほういん こうやまじ)

所在地:香川県善通寺市弘田町1765-1
電話:0877-63-0074

【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)

甲山寺周辺は弘法大師の故郷で、幼少時代によく遊んだといわれる場所。平安初期、壮年期になった弘法大師は善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探していました。
ある時甲山を歩いていると、麓の岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう。」と言いました。弘法大師は大変喜び、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置し、供養しました
甲山寺は甲山北麓にある。甲山は標高87mの小山で山門の前は川が流れ、川の向こうは田んぼです。このあたりは大師が子供の頃の遊び場だったと伝えられています 
 山門
修行大師像
甲山寺 本堂前門 本堂 本尊・薬師如来
 大師堂
毘沙門天の岩窟・・洞窟の中には大師が石材を刻んで作った毘沙門天が安置されている 
  出釈迦寺まで約2.7km


(がはいしざん ぐもんじいん しゅっしゃかじ)

所在地:香川県善通寺市吉原町1091
電話:0877-63-0073

【本尊】釈迦如来(智慧と慈悲を備えた仏様)

出釈迦寺の開基には、弘法大師幼少期の数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起にゆかりがあります。それは、弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で虚空蔵菩薩像を刻んで安置し、堂宇を建てたといいます。 
大師像・前方には我拝師山が見える。 みかん畑の細い坂道を上がると
出釈迦寺がある
本堂への階段 捨身ヶ嶽」の案内板
 本堂  本尊・釈迦如来 大師堂 
   曼荼羅寺まで約0.5km


(がはいじざん えんめいいん まんだらじ)

所在地:香川県善通寺市吉原町1380-1
電話:0877-63-0072

【本尊】大日如来(宇宙最高の仏様)

創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)。讃岐の領主・佐伯家の氏寺として創建され、初め「世坂寺(よさかでら)」と称していました。弘法大師がこの寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のこと。亡き母玉依御前の冥福を祈るためだったともいわれています出釈迦寺から800m程の所にあり、まわりは田んぼが点在する閑静な地域にあります。山門をくぐると小さな石橋があって正面に本堂、左手に大師堂と鐘楼があり、ひと休みしたくなるような雰囲気をもつ札所です。
山門
本堂への参道・・本堂前に小さな石橋
本堂  本尊・大日如来  大師堂
 出釈迦寺と曼荼羅寺の朱印を済ませ今晩宿泊地、善通寺宿坊へと急ぎます。
10ヶ寺をお参りする事が出来ました。
 弥谷寺まで約4.3km


(けんござん せんじゅいん いやだにじ)

所在地:香川県三豊市三野町大字見乙70
電話:0875-72-3446

【本尊】千手観世音菩薩(現世利益の仏様)


弥谷寺のある弥谷山は、古来より霊山(仏山)として信仰されたといわれ、日本三大霊場(恐山・臼杵磨崖仏・弥谷山)の一つに数えられたとされる。古来より、人々は山々に仏や神が宿ると信じ、その山を霊山(霊峰)と呼び信仰の対象としたとされる
弥谷寺があるところは弥谷山(382m)の南腹一帯を占めている信仰遺跡で県の史跡に指定されています。弥谷寺まで木々の生い茂る有料道路(500円)を通り弥谷寺へと  
金剛拳大菩薩像の横に車を止めます。 
仁王門から金剛拳大菩薩像までは260段の
階段が私たちは有料道路で一気に 
 駐車場からも108段の長い階段を登ります。
上には大師堂が
階段の上は護摩堂と大師堂 弘法大師が千座の護摩を修法したと
いわれている岩窟の護摩堂
 大師堂 奥の院 獅子岩窟と呼ばれ弘法大師が幼少の頃励んだ場所と伝えられています。
ここは岩窟で大師像と父母の二像が祀られています。
境内の多宝塔を見上げる 修業大師像と十王堂
 紅葉の綺麗な石段を本堂にむけて登ります。
本堂へと続く長い石段。
 石段横には石仏が
  本堂 本尊・千手観音  本堂下から十王堂を 紅葉の先は大師堂
  本山寺まで約 12.3km


(しっぽうざん じほういん もとやまじ)

所在地:香川県三豊市豊中町本山甲1445
電話:0875-62-2007

【本尊】馬頭観世音菩薩(悪を懲らしめる仏様)


四国霊場では竹林寺・志度寺・善通寺とこの本山寺の4ヶ所だけという五重塔が目印。大同4年(809)の建立でしたが損傷が激しく明治43年に再建されました。また、本尊は馬頭観世音菩薩で四国霊場では唯一のもの。頭上に馬頭をいただく観音様で、祀られている本堂のそばには馬の像が控えています。
JR予讃線本山駅から15分程の所にある本山寺は、財田川北岸にあって単調な田園風景の中に遠くからでも境内にある五重塔がくっきりと見えます。

「弘法大師一夜建て、本山寺」という看板が立っています。弘法大師が一夜程の短い時間で建立したと伝えられている名刹です。 
八脚門で唐風の絵模様の彫刻があります すっきりと立つ五重塔(明治43年建立)
本堂  本尊・馬頭観音
大師堂
境内には2頭の馬の像が立っています。
さすが本尊は馬頭観世音菩薩
 本堂と弘法大師像
  観音寺まで約 4.7km


(しっぽうざん かんおんじ)

所在地:香川県観音寺市八幡町1-2-7
電話:0875-25-3871

【本尊】聖観世音菩薩(苦難を除く仏様)


高地には札所間の距離が100kmもある場所があるが反対に距離が最も短いのが、ここ六十八番・神恵院も六十九番・観音寺は琴弾公園内の琴弾山の中腹にあります。2つの札所が同じ境内に存在する、とても珍しい霊場です。納経所も一緒になっているが、本堂や大師堂の雰囲気はそれどれ違います。観音寺は朱色がとても鮮やかです。
大同2年(807)、弘法大師は琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来像を納めたとき、この寺の第7世住職となって入山している。大師はそのころ、琴弾大明神が乗っていた神船は神功皇后とゆかりがあり、観音の化身であると感得した。そこで大師は、琴弾山の中腹に奈良の興福寺に倣ならって中金堂、東金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、その中金堂には本尊とする聖観世音菩薩像を彫造して安置した。 
本堂 本尊・聖観世音菩薩
大師堂
 薬師堂から琴弾公園へと階段を登ります。
琴弾公園山頂へ上がると眼下に有明海岸が
広がり、その砂浜に大きい銭形があります。
階段上の薬師堂から
観音寺・神恵院境内を見下ろす 
 有明海岸と「寛永通貨」の銭形・・・周囲350m 深さ1.5m 東西122m 南北90mの楕円形。 
讃岐領主生駒高俊がこの地を訪れるというので、付近の漁民たちが
お殿様をお慰めするために一夜で作りあげたという。
 神恵院は同じ境内


(しっぽうざん じんねいん)

所在地:香川県観音寺市八幡町1-2-7
電話:0875-25-3871

【本尊】阿弥陀如来(極楽往生を約束する仏様


六十八番・神恵院も六十九番・観音寺も琴弾公園内の琴弾山の中腹にあります。2つの札所が同じ境内に存在する、とても珍しい霊場です。
開基したのは法相宗の高僧・日証上人といわれています。大宝3年(703)この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受け、かなたの海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀りました。このとき、神宮寺として建てられた寺が起源とされています。大同2年(807)弘法大師が琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、寺の名を「神恵院」にとし、六十八番霊場としました。
観音寺と仁王門も境内も一緒の神恵院
 
観音寺、神恵院の仁王門
本堂へと続く階段
2002年に新しく建立された本堂は、コンクリート打ちっぱなしで白木と組み合わされた
近代的な造りです。  本堂 本尊・阿弥陀如来
 大師堂
 鐘楼
   大興寺まで約10.4km


(こまつおざん ふどうこういん だいこうじ)

所在地:香川県三豊市山本町辻4209
電話:0875-63-2341

【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)


地元では大興寺というより、山号にちなむ「小松尾寺」という呼称が親しまれ、近傍一帯の集落を小松尾と呼ぶ。まわりはのどかな田園地帯で、寺の前には小川が流れ小さい石橋がかかっています。橋を渡るとすぐに仁王門があり、この仁王門は八百屋お七で知られる吉三郎が遍路中に寄進したという伝説があります
戦国時代末、長宗我部元親の兵火により一部を残してことごとくを焼失、慶長年間(1596〜1615)に再建されたが再び焼亡、本堂は寛保元年(1741)に建立されたものである。 
大興寺 仁王門
仁王門をくぐると老樹が生い茂る階段があります。
大興寺境内  本堂 本尊・薬師如来
大師堂 合計92段の階段上から仁王門を見下ろす。
   雲辺寺まで約25km


(きょごうざん せんじゅいん うんぺんじ)

所在地:徳島県三好市池田町白地ノロウチ763-2
電話:0883-74-0066

【本尊】千手観世音菩薩(現世利益の仏様)

四国霊場のうち最も高い標高911メートル、四国山脈の山頂近くにある霊場で、「遍路ころがし」と呼ばれる難所とされた。現在は、麓からロープウエーで山頂駅まで登ることができる。住所は徳島県だが、霊場としては讃岐の打ち始めでいわば「関所寺」

雲辺寺へのロープウェイ・・・山の山頂にある札所をお参りする遍路にとって、道路やロープウェイが延びることはありがたいです。ここ雲辺寺へはロープウェイが利用できる。山麓と山頂を約7分でいけますが、往復2000円は高いかも?・・・山頂駅から本堂へはしばらく歩く。
山頂にこんな広い境内があることは驚きです。
 
ロープウェイから山頂方面を・・・
中央部で交代です。
山麓方面を
おむかえ大師と 参道から五百羅漢を   大きい木々に覆われた仁王門
仁王門の前を通り本堂へと  持仏堂 「おたのみなす」の横に茄子の置物が、願をこめて「おたのみなす」に腰かけて見て下さいとある。「成す」と「ナス」は語呂が同じで努力が報われて願が叶うという
本堂は簡素でがっちりしている、いかにも
山寺という感じ  本尊・千手観音
 大師堂
   愛媛県 三角寺まで約34.5km

(ゆれいざん じそんいん さんかくじ)

所在地:愛媛県四国中央市金田町三角寺甲75
電話:0896-56-3065


【本尊】十一面観世音菩薩(災難除けの仏様
江戸時代の俳人・小林一茶が寛政7年(1795)に訪れたとき、「これでこそ 登りかひあり 山桜」と詠まれただけあって、山内は樹齢3、400年の桜が爛漫となる名所である。

伊予最後の霊場で、標高は約430m、平石山の中腹にある静かな境内。三角寺へは細い山道をぐねぐねと走ります。三角寺は平石山(826m)の北腹(三角寺山)にあり駐車場から72段の急な石段を上がり切ったところが境内になっています。静かな佇まいであると同時に、怖いくらいな静寂に包まれていましたがツアーでのお遍路さんが押し寄せ静寂な雰囲気が吹き飛んでしまいました。

急な石段を上がって境内へと 石段を上りきったところには山門があって、
この山門にが梵鐘が釣り下がっています。
本堂 本尊・十一面観音  大師堂  大師堂の横に大きな地蔵様
 境内に寒桜  薬師堂 
   前神寺まで約45.6km

2015年3月26日~27日 四国八十八ヶ所参拝をメインに、ちょっと観光に春休みを利用して孫と行ってきました。一日目は大歩危小歩危舟下りとかずら橋観光です。
大歩危小歩危・・・吉野川が四国山脈を横切るところ結晶片岩が水蝕されてできた渓谷(約8km)は大股で歩いても小股で歩いても危険と言われていつことからこの名前が付いたと言われています。レストラン大歩危峡まんなかが発着点階段を下って川まで降りて行きます。
レストランまんなか駐車場から
遊覧船乗り場を見下ろす。
 
船が出発場所辺りからしばらくは岩が下流に
向って傾いています。 
切り立った崖下の渓谷を往復30分ほど遊覧します。 下ってくる遊覧船とすれ違い、手を振りあいます。
 大歩危峡の渓谷を悠々と遊覧ですが、まだ冬の景色です。桜は蕾かたしです。
 
 かずら橋途中に平家屋敷(西岡家住宅・三好市重要文化財)の案内板を見つけ寄って見る事に・・・・
見学500円
平家屋敷の祖先である堀川内記は安徳帝の御典医として宮中に仕えていたが、平家の都落ちの時、安徳帝を供奉じて屋島に落ちのびた、平家滅亡の後、残党と共に祖谷に入山した内記は祖谷の山野に薬草の豊富な事に驚き、秘薬を採集し当地で医を開業していたが、蜂須賀入国の時、反旗を翻し戦い負傷者の治療に当った、祖谷軍が敗れ堀川家も罰せられたが、後に赦されて、当地西岡名主となり、性を西岡と改め、西岡内記と名し西岡家の当主となった。
 主屋は木造茅葺、寄棟造り、平屋建てで、幕末から明治時代に宮大工が3年の歳月を掛けて造られたといわれています。
「コビラ玄関という珍しい造りがあり部屋には壁、押し入れがなく、戸を外すと一室とまります。
 
 平家一族の哀話を秘める、秘境“祖谷”にあるかずら橋。シラクチカズラ(重さ約5トン)で作られたもので、長さ45m・幅2m・水面上14m。 昔は深山渓谷地帯の唯一の交通施設であった。3年毎に架替えが行われる。(国指定重要有形民俗文化財指定) 料金大人550円 子供350円 渡れるのは一回きりです。
手を離して歩く事が出来ません 横のツルをしっかり持って進みます。
 河原から、かずら橋を・・・
 
祖谷川の清流に、その影を映した悠然たる姿は一年を通し自然と調和した、美しい景観を生み出しています 
八十八ヶ所第64番前神寺へと向かいます 2時間程(約120km)走行



(いしづちざん こんじきいん まえがみじ)

所在地:愛媛県西条市洲之内甲1426
電話:0897-56-6995


【本尊】阿弥陀如来(極楽往生を約束する仏様)

前神寺は、山岳信仰の山として崇拝される富士、大山など日本七霊山の一つ、国定公園・石鎚山(標高1982mの麓にある。真言宗石派の総本山であり、修験道の根本道場でもある。弘法大師は若い空海のころ、この石鎚山に2度入山しており、虚空蔵求聞持法や37日におよぶ護摩修法、あるいは三七日(21日間)の断食修行をしたことが知られている。
縁起によると、修験道の祖・役行者小角が石鎚山で修行をしたのは天武天皇(在位673〜86)のころとされ、修行中に釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するために石蔵王権現となって現れたのを感得した。その尊像を彫って安置し、祀ったのが開創とされている。その後、桓武天皇(在位781〜806)が病気平癒を祈願したところ、成就されたので七堂伽藍を建立して、勅願寺とされ「金色院・前神寺」の称号を下賜した。   
前神寺参道を駐車場へと 駐車場からすぐに大師堂と鐘楼
 落ち着いた佇まいの大師堂 金毘羅大権現 
大師像 本堂手前の石段横に御瀧行場不動尊・・
清水が湧き出しています。
薬師堂 本堂・阿弥陀如来 
昭和42年に消失した為、昭和47年に再建された
   吉祥寺まで約3.2km



(みっきょういん たいぞういん きちじょうじ)

所在地:愛媛県西条市氷見乙1048
電話:0897-57-8863


【本尊】毘沙門天(財福を授ける仏様・北方の
守護神

東西に走る国道11号線と、JR予讃線に挟まれて所在する。かつては塔頭21坊の伽藍を誇った大寺域は、やはり近代化された道路と鉄道によって狭められた。四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所は吉祥寺だけで、その縁起をたどる。弘法大師がこの地方を巡教したのは弘仁年間とされ、その折に大師は1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得した。大師は、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている。そのころの寺は、現在地より南東にあたる坂元山にあり、広い寺域に塔頭を21坊ほども有していた。だが、天正13年(1585)豊臣秀吉による四国攻めの争乱に巻き込まれて全山を焼失されている。その後、江戸時代の万治2年(1659)、末寺であった檜木寺と合併して、現在の地に移り再建されたと伝えられる。  
仁王門 仁王門をくぐると紅白の椿が見頃
お迎え大師像  福聚閣
満開の桜で鐘楼が見えません 成就石・・本堂の手前にある高さ1mほどの石で、
中央下に径30〜40cmの穴があり、
金剛杖を通せば願いが叶えられるという
 大師堂 本堂 本尊・毘沙門天
   宝寿寺まで約3km
 八十八ヶ所 2寺参拝し、今晩宿泊の国民休暇村瀬戸内東予 到着・・・ 燧灘を望む
国民休暇村瀬戸内東予 夕食前にひとっ風呂です。  
露天風呂にバラの花が・・
  伊予牛の鉄板焼きと、海鮮料理のバイキング予約です。 宿泊料12000円
ちょっと外に・・・夜景を
燧灘に上がる朝日を 山頂に雪が残る石鎚山
ホテル9時出発 八十八ヶ所 お寺参拝です 朱印五時まで・・・



(てんようざん かんのんいん ほうじゅじ)

所在地:愛媛県西条市小松町新屋敷甲428
電話:0898-72-2210


【本尊】十一面観世音菩薩(災難除けの仏様)

JR伊予小松駅から西へ歩いて1分、100m近い。境内は、しっとりとした日本庭園の風情が満ちており、遍路の気分を和ませてくれる。往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが宝寿寺の沿革である。
弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806〜10)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。そのころ国司の越智公夫人が難産で苦しんでいた。大師が本尊に祈願した霊水・玉の井で加持したところ、無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。
以後、大山祇神社の別当寺として栄えたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅し、さらに明治維新の廃仏毀釈令に遭い、明治10年に再建されている。
参道から本堂を・・・ チラホラ咲きの桜と宝寿寺
手入れされた日本庭園 元本堂は工事中
本堂 本尊・十一面観世音菩薩 大師堂 
   香園寺まで約2km



(せんだんざん きょうおういん こうおんじ

所在地:愛媛県西条市小松町南川甲19
電話:0898-72-3861


【本尊】大日如来(宇宙最高の仏様仏)
香園寺は聖徳太子(574〜622)の開基という四国霊場屈指の古刹であり、一方、境内には本堂と大師堂を兼ねた超近代的な大聖堂を構えている。また、寺が創始した子安講の輪は、海外にまで広がり現在20.000人を超えている。
ある日、門前で身重の婦人が苦しんでいた。大師は、栴檀の香を焚いて加持、祈祷をした。すると婦人は元気な男子を無事に出産した。これが機縁となり、大師は唐から持ち帰った小さな金の大日如来像を本尊の胸に納め、再び栴檀の香を焚いて安産、子育て、身代わり、女人成仏を祈る「四誓願」の護摩修法をされて寺に遺し、霊場に定められた。「栴檀山」はこれに由来する。 以来、安産、子育ての信仰を得て栄え、七堂伽藍と六坊を整えたが「天正の兵火」で焼失、寺運は明治・大正になって復興している。
香園寺・車で参道を駐車場まで 香園寺・大学のキャンパスのようです。 
鐘楼 子安大師堂
大聖堂昭和51年に建立。
褐色の鉄筋コンクリート造り高さ16m、
1階が大講堂、2階が本堂と大師堂。
大聖堂正面・ここで参拝することが出来ます。
大聖堂横の階段を登り本堂内部へと 本堂内部は広い講堂のようです。本堂には620余の
椅子席があります。中央に大日如来坐像
背中にゴザ、右手に錫杖、
左手に赤ん坊を抱いた大師のお姿。
弘法大師さまは厨子の中に・・ 
  横峰寺まで約17.6km 



(いしづちざん ふくちいん よこみねじ)

所在地:愛媛県西条市小松町石鎚甲2253
電話:0897-59-0142
 

【本尊】大日如来(宇宙最高の仏様)
今までは歩かねばならない唯一の寺であった
 西日本の最高峰・石鎚山(標高1982m)は、山岳信仰の霊地であり、修験道の道場でもある。境内は山の北側中腹(750m)にあり、四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所であっが、昭和59年に平野林道が完成して、1850円の有料道路になっています。駐車場から境内までは500m程の九十九折の道を下っていきます。
縁起によると、白雉2年、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、山頂付近に蔵王権現が現れたという。その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建とされている。また、延暦年間(782〜806)には石仙仙人という行者が住んでおり、桓武天皇(在位781〜806)の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられる。弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間(806〜10)とされ、このときやはり蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。以来、神仏習合の別当寺として栄えているが、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は廃寺となった。明治42年になって、檀信徒の協力によりようやく復興している。
横峰寺・平野林道 黒瀬ダムを車窓から 駐車場から山並みを・・桜は蕾固し
駐車場から500m程九十九折の
道を下り本堂へと
坂の下、左側に大師堂があります。
客殿・納経所を見下ろす。 大師堂
大師堂正面が本堂になっています 星供大師像 
本堂 本尊・大日如来 納経所へと・・・ 
   国分寺まで約34km



(こんこうざん さいしょういん こくぶんじ)

所在地:愛媛県今治市国分4-1-33
電話:0898-48-0533


【本尊】薬師瑠璃光如来(病気を治す仏様)

国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如(?〜862?)も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている。  その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。まず、天慶2年(939)の「藤原純友の乱」により灰燼に帰した。次に、元暦元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)、讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃。幸い寺には、古瓦をはじめ『国分寺文書』『大般若経』など数多い文化財が保存されている。四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しつのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。
国分寺境内」へと続く石段 鐘楼
正面本堂・両脇の桜は蕾 握手修行大師・薬壺
大師堂  本堂は寛政元年(1789)に再建。
伝行基菩薩作の本尊・薬師如来像は県指定文化財。 
   仙遊寺まで約10km



(されいざん せんこういん せんゆうじ)

所在地:愛媛県今治市玉川町別所甲483
電話:0898-55-2141


【本尊】千手観世音菩薩(現世利益の仏様)

境内は、山号になっている作礼山の山頂近い標高300mの高台にあり、今治の市街地や四国一高い今治国際ホテルは眼下に望める。
その先には瀬戸内海に浮かぶ島々、さらには平成11年に開通した「しまなみ海道」も一望できる眺望豊かな地にある。創建は天智天皇(在位668〜71)の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。このことから「作礼山」が山号となり、竜宮から届けられたという伝説もある。 又、40年間暮らしていた阿坊仙人が養老2年(718)に雲のごとく姿を消してしまったので仙遊寺という寺号が名づけられたとか。弘仁年間(810~824)弘法大師が訪れ寺を再興。歴史と多くの伝説ロマンが息づく名刹  
歩き遍路は仁王門をくぐり急坂を登ります
私たちは仁王門横道を駐車場へと
駐車場から遠くに瀬戸内海を望む
駐車場からすぐに子安観音像と横には千体仏 大師堂周りは四国88ヶ所お砂踏霊場
鐘楼 空海像 
 大師堂 本堂 本尊・千手観世音菩薩 
  栄福寺まで約4km 



(ふとうざん むりょうじゅいん えいふくじ)

所在地:愛媛県今治市玉川町八幡甲200
電話:0898-55-2432


【本尊】阿弥陀如来(極楽往生約束する仏様)

寺には足が不自由な遍路が歩けるように
なった逸話があり、足を悩みに持つ人の
参拝も多い。
 弘仁年間(810~824)、この地を訪れた大師は瀬戸内海が荒れて事故が続出していることを聴き、海神供養の護摩を修した。満願の日、大師は阿弥陀如来の姿を感得し、仏像を刻んで安置した。 その後、貞観3年(861)僧行教が山城の男山八幡を創建に行く途中、暴風にあい、ここへ漂着しました。その時、府頭山が男山に似ているので、境内に八幡宮を勧請し、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したといわれています。
明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、また神社と寺はそれぞれ独立した。現在の大師堂は、山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。
駐車場から栄福寺境内へと 修行大師像
正面本堂、右側には大師堂 空海像
 石段を登りきると本堂
本尊・阿弥陀如来
(極楽往生を約束する仏様)
 本堂内部
本堂から境内を正面客殿 大師堂
   泰山寺まで約4km



(きんりんざん ちょくおういん たいさんじ)

所在地:愛媛県今治市小泉1-9-18
電話:0898-22-5959


【本尊】地蔵大菩薩(天界から地獄まで救う仏様)

泰山寺には、水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く残っている。弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころ、蒼社川という川がこの地方を流れて
おり、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられる。「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。 寺はその後、淳和天皇(在位823〜33)の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、塔頭に地蔵坊、不動坊など10坊を構えるほどの巨刹として栄えた。だが度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、大師お手植えの「不忘の松」があったところに移ったと伝えられている。 
参道には種類豊富な愛媛みかんが
販売されています
泰山寺への参道、石垣がきれい
石段を上りきると正面本坊 広い境内が広がっています。
大師お手植えの「不忘の松」 弘法大師像
   本堂 本尊・地蔵菩薩
(天界から地獄まで救う仏様)
大師堂 
南光坊まで約4km



(べっくざん こんごういん なんこうぼう)

所在地:愛媛県今治市別宮町3丁目一番地
電話:0898-22-2916


本尊】大通智勝如来(伊予の領主河野氏の
先祖に智なんだ仏様)

今治駅から約600m八十八ヶ所で唯一「坊」のつく札所別宮山南光坊。真言宗醍醐派。
 寺のはじまりは大山積(おおやまづみ)明神を今治沖の大三島に勧請し、航海の安全神としてまつられ、行基菩薩が開山され、本尊大通智勝如来を安置され、二十四坊あった別当地のうち、大宝3年(703)と和堂5年(711)の二度にわたって八坊を越智郡日吉郷に移された一坊でした。弘法大師は四国巡錫の時、別宮に参拝し当坊で法楽をあげて四国霊場に定められました。後に天正年間、長宗我部の兵火で八坊は全て焼失され、当坊だけが現在地に再建されました。
山門・四天王像が両脇に 山門正面に本堂 
 本堂 本尊・大通智勝如来
(伊予の領主河野氏の先祖にちなんだ仏様)
薬師堂
 弘法大師像 大師堂 
   延命寺まで約4km



(ちかみざん ほうしょういん えんめいじ)

所在地:愛媛県今治市阿方甲636
電話:0898-22-5696


【本尊】不動明王(大日如来の化身)

今治の市街地から西北へ6kmほどのところに、延命寺の山号にもなっている近見山という標高244mの山がある。この山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたのが延命寺であったと伝えられる。
 縁起によると、養老四年に聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。弘仁年間(810〜24)になって、弘法大師が嵯峨天皇(在位809〜23)の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めている。その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、享保12年(1727)に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。
仁王門 山門・もと今治城の城門の一つで、総けやき造り。
明治初期に今治城取り壊しの際に譲り受けた。
正面本堂屋根改修中 御本尊仮本尊安置所
石段の上に大師堂  大師堂 
 御本尊仮安置所から山門を 駐車場から仁王門と鐘楼 
   円明寺まで約40km
 9寺参拝することが出来ました。 
帰路は、しまなみ海道から山陽自動車道 10時帰宅 走行距離約800km


2015年6月13日、53番円明寺~44番大宝寺の遍路旅に出かけます。自宅から愛媛県松山市まで約290kmあり4時間はかかりそうです。どうしても十ヶ寺参拝したいので自宅出発5時です。
53番円明寺~48番西林寺は2004年に参拝していたので今回は写真のみです(お連れさんは朱印が有ります)47番八坂寺には13時頃にお参りする事が出来、十ヶ寺参拝目鼻が付いてきました。後は余裕を持って参拝する事が出来、帰りはゆっくり食事を済ませ帰路に。今日の走行距離700km


(すがさん しょうちいん えんみょうじ)

所在地:愛媛県松山市和気町1-182
電話:089-978-1129


【本尊】阿弥陀如来
(極楽往生を約束する仏様)

 圓明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。
大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。
 天平年間(729~749)に聖武天皇の勅願により、行基菩薩によって和気の海岸に一寺を建立し、本尊阿弥陀如来像を刻み安置してまつり、海岸山・円明寺と称したのがはじまり。のち、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615〜24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。 圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。
2004年朱印・・・梅雨時期までにもう一度参拝
仁王門(八脚門) 仁王門から左に大師堂右に手洗いと観音堂
観音堂(十一面観音像安置・慶長5年の台座銘) 大師堂
中門を潜れば正面に本堂が現れます。 円明寺  本堂 本尊・阿弥陀如来
 本堂内部 左に多聞天・右に増長天 境内に弘法大師像 
   太山寺まで約2/4km



(りゅううんざん ごじいん たいさんじ)

所在地:愛媛県松山市太山寺町1730
電話:089-978-0329

【本尊】十一面観音菩薩(災難よけの仏様)

開基とされる真野長者、その長者が一夜にして御堂を建てたという縁起は興味深い。
長者は豊後(大分)でふいごの炭焼きをしていたが、神のお告げで久我大臣の娘・王津姫と結婚、いらい運が開けて大富豪となった。用明2年(587)、商いのため船で大阪に向かうとき大暴風雨に遭い、観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口66尺、奥行き81尺の本堂を建てる木組みを整えて船積みした。順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が
輝くころに本堂は建ち上がった。いらい「一夜建立の御堂」と伝えられている。  その後、天平11年(739)に聖武天皇(在位724〜49)の勅願をうけて、行基菩薩が十一面観音像を彫造し、その胎内に真野長者が瀧雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊にしたという。寺が隆盛したのは孝謙天皇(在位749〜58)のころで、七堂伽藍と66坊を数えるほど壮観であった。弘法大師は晩年の天長年間(824〜34)に訪れ、護摩供の修法をされて、それまでの法相宗から真言宗に改宗している。
のち、後冷泉天皇(在位1045〜68)をはじめに、後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の6代にわたる各天皇が、十一面観音像を奉納されている。いずれも像高は150cm前後で、本尊の十一面観音像とともに国の重要文化財。本堂内陣の厨子に安置されている。なお現本堂は長者の建立から3度目だが、真言密教では最大規模を誇り国宝である。

仁王門の横の車道を通り駐車場へと 駐車場にタイサンボクの花
庫裏と納経所 横の案内板に本堂へ250m上と・・・
 三の門横に十三仏 本堂へと続く三の門 
 太山寺 本堂 本尊・十一面観世音菩薩 厄除け大師堂前に大師像が 
 大師堂・手前の紐が大師さまの手に結ばれています。
紐を触ることによって大師さまの手に触れた事に
なるそうです
大師堂から本堂と境内全体を望む 
   石手寺まで10.4km



(くまのざん こくぞういん いしてじ)

所在地:愛媛県松山市石手二丁目9番21号
電話:089-977-0870


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)
日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。
聖武天皇の神亀5年(782)、伊予大守越智玉純が勅を奉じて鎮護国家の道場として伽藍を建立し安養寺と名づけたのはじまり。 弘仁4年(813)弘法大師がこの地を巡錫され、真言宗に改宗して四国霊場のひとつに定められました。 寛平4年(892)城主河野家に、小石を握った子が誕生したのにちなんで石手寺となりました。これは、12番札所焼山寺で行き倒れた衛門三郎を許した弘法大師が「衛門三郎再来」と書いた小石を握らせて「再来の時は河野家の子になる」と予言した由来が伝わっており、この石は今も寺に展示されています。
車道から二の門を・・ 二の門から車道方面を・・太鼓橋と大師像
お土産店が並ぶ参道 地蔵院
仁王門 仁王門の大きな草鞋が奉納されています。 
大師像と三重塔 三重塔後方筆大師像 
本殿 成就大師・納経所 石手寺 本堂 本尊・薬師如来 
大師堂 大師堂内部
元気再生の輪 曼荼羅 四国八十八ヶ所霊場都卒天洞
洞窟入口 
四国八十八ヶ所霊場 
洞窟 中は真っ暗です。
フラッシュをたいて写してみました。
延々と続いています ちょっと暗さに
怖くなり途中で折り返しです。 
繁多寺まで約2.5km



(ひがしやま るりこういん はんたじ)

所在地:愛媛県松山市畑寺町32
電話:089-975

【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)


寺は淡路山という丘陵の中腹にある。そのため、山門からの展望は素晴らしい。松山城を始めとした松山市一帯から、遠く瀬戸内海までを見渡す事が出来ます。山門を入って石段を上がると広い境内がひらけ正面に本堂が有ります
  縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、「光明寺」と号された。弘仁年間(810〜24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山・繁多寺」と改め、霊場とされた。また、この寺は、時宗の開祖である一遍上人ゆかりの寺としても有名です。
繁多寺・すっきりとした姿の山門 山門からすぐ左手の納経所
池の中央に弁財天がお祀りしてあります。 歓喜天像・・本堂左手の聖天堂に安置。
祈れば富貴を与え、厄除け、夫婦和合
、商売繁盛などのご利益があるという。
繁多寺 本堂 本尊・薬師如来 繁多寺  大師堂は本堂の右手奥に
大師像と法界塔 境内に菩提樹の花・香りが漂っています。
   浄土寺まで約2.1km



(さいりんざん さんぞういん じょうどじ)


所在地:愛媛県松山市鷹子町1198
電話:089-975-1730


【本尊】釈迦如来(智慧と慈悲を備えた仏様)
浄土寺は伊予鉄道久米駅にほど近い山裾にある。閑静な札所。
浄土寺は空也上人(903〜72)の姿がいまに残る寺である。腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口からでる姿が浮かぶ。道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した遊行僧、念仏聖である。この空也上人像を本堂の厨子に安置する浄土寺は、縁起によると天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇(在位749〜58)の勅願寺として、恵明上人により行基菩薩(668〜749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り、開創された。法相宗の寺院だったという。のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗した。そのころから寺運は栄え、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった。
浄土寺仁王門 阿吽像・・・沢山の草鞋が奉納されています
浄土寺 本堂 本尊・釈迦如来
文明16(1484)の建築 
本瓦葺の屋根を持つ唐様式の建物
大師堂
本堂と大師堂の間に立つ大師像 阿弥陀堂
庫裏・納経所へと続く門  納経所前の庭園・手入れが行き届いています
   西林寺まで約3.1km



(きよたきざん あんよういん さいりんじ)

所在地:愛媛県松山市高井町1007
電話:089-975-0319


【本尊】十一面観音菩薩(災難除けの仏様)
西林寺の周りはのどかな田園風景です。寺の前に小川があり、きれいな水が流れている。
 縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立した。その地は現在の松山市小野播磨塚あたりの「徳威の里」とされ、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置した。大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際この寺に逗留した。ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とされた。
西林寺 二層の仁王門 仁王門をくぐると左手に鐘楼があり
本堂までは敷石が引いてあります。
水子地蔵もお祀りされています。 西林寺 本堂 本尊・十一面観音
後ろ向きの本尊が祀られている本堂
本堂横にこじんまりした大師堂が・・  弁財天 
 庫裏 方丈 納経所へと  庫裏前の庭園に福授地蔵
庫裏・方丈 納経所  庫裏前の庭園に大きなサボテンの木
花がいっぱい咲いています。 
   八坂寺まで約4.4km


 
(くまのざん みょうけんいん やさかじ)

所在地:愛媛県松山市浄瑠璃町八坂773
電話:089-963-0271


【本尊】阿弥陀如来(極楽往生を約束する仏様

浄瑠璃寺から北へ約1キロと近い八坂寺との間は、田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。
遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、1,300年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697〜707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁6年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942〜1017)の作と伝えられる
駐車場に不動三尊“いやさか不動尊”
平成17年に柴燈護摩道場も建立、毎年4月29日に
柴燈大護摩供火渡り修行が厳修され、
衰退していた修験道が復興された。
極楽橋を渡り納経所へ 
納経所前の可愛いお地蔵さま 周囲には
猫が数匹参拝者を出迎えてくれています。
石段を登って本堂へ
鉄筋コンクリートの本堂
本尊・阿弥陀如来(50年に一度だけ開帳される)
大師堂
本堂と大師堂に挟まれて閻魔堂が有り、
地獄の道と極楽の道の入口が有ります
「極楽の途」「地獄の途」があり、極楽には
美しい浄土が、地獄には餓鬼道、畜生道、
修羅道などが描かれている。
   浄瑠璃寺まで約0.8km


 
(いおうざん ようしゅいん じょうるりじ)

所在地:愛媛県松山市浄瑠璃町282
電話:089-963-0279


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)

浄瑠璃寺は松山市内八ヶ寺の打ち始めの霊場である
  和銅元年(706)、行基菩薩が本尊薬師如来を刻み、さらに日光、月光の両菩薩と十二神将を刻んで安置され、薬師如来の別名である瑠璃光如来から寺号を浄瑠璃寺と名づけたのが寺のはじまりといわれています。本堂の前にビシャクシンと大ソテツ、弘法大師誕生1,200年を記念してつくられた仏足石、あらゆる智恵と技能をひらく石の手型、300枚の皿を塔にはりつけた鎮魂の皿、そして水子地蔵と経塚など、境内のあちこちに配されています。また籾に弘法大師を刻んだ籾大師もあり、現物があまりにも小さいので拡大複写した石像をお祀りしています。
境内にそびえる樹齢約1,000年の
イブキビャクシンの大木の間を本堂に向けて
本堂手前に納経所
鐘楼の手前“仏手石” 籾大師像
 本堂 左に仏足石 右に説法石
本尊・薬師如来
古さが感じられる、大師堂 
   岩屋寺まで約30.8km



(かいがんざん いわやじ)

所在地:愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥1468
電話:0892-57-0417


【本尊】不動明王(大日如来の化身)
標高700m。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場です。神仙境をおもわせる境内は、むかしから修験者が修行の場としていたようで、さまざまな伝承が残されています。
  弘仁6年(815)、弘法大師がこの地を訪れられた時、土佐生まれの法華仙人という名前の女仙人がこの山にこもり、不思議な神通力を持ち仙術を極めていましたが、この女仙人は弘法大師の尊さにうたれ、一山を弘法大師に献じて大往生を遂げたと伝承されています。そこで弘法大師は、木と石で二体の不動明王を彫り、石像を岩峰に封じて、全山を本尊とみたて、木像は本堂に安置して、転禍為福の護摩供を修しました。弘法大師が詠まれた「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を波にたとへむ」より山号を海岸山、寺号を岩屋寺と号したと伝えられています。
駐車場から数件ある売店を抜け参道へと 道はそこから登り坂になって、しばらく行くと
長い石段になっています
山門から本堂まで266段の石段が続く 杉木立の間を行くと、途中にぽつんと
大師像が立っている
 石段が続く遍路道 途中可愛いチワワくん  
 赤い太鼓橋 参道両脇には幟(のぼり)が
 道開く不動尊 参道両脇には色んな石仏さまが並んでいます。 
石段を上りつめるとようやく 
納経所が見えてきた
石段上に鐘楼 
巨大な岩石の岩壁がそそり立つ前に納経所  納経所横に“穴禅定(水供養)”
ちょっと中を覗いてみました。 
 納経所 本堂 本尊・不動明王
本堂上の岩壁が大きくせり出している。
 本堂背後に岩壁がそびえている。 本堂横にある梯子。
上に何かがあるようです。 
 ちょっと登ってみました。
下を見ると足が竦みます。
梯子から手を放す事が出来ません。
梯子から下を見る。 
 大師堂 足場が組まれて修復中のようです。 せりわり(白山権現)行場へと続く山門
 山門まで下りてきました。 紫陽花が咲く参道を振り返る 
   大宝寺まで約11.3km



(すごうさん だいかくいん だいほうじ)

所在地:愛媛県浮穴郡久万高原町菅生1173
電話:0892-21-0044


【本尊】十一面観世音菩薩(災難除けの仏様)

四十三番明石寺からの道のりは約80km、峠越えの難所がつづき、歩けば20時間を超す「遍路ころがし」の霊場。四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」といわれる。標高四90mの高原にあり、境内は老樹が林立し、幽寂な空気が漂う。
  縁起は大和朝廷の時代まで遡る。百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していた。飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇(在位697〜707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。弘法大師がこの地を訪れたのは、およそ120年後で弘仁13年(822)、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めた。仁平2年(1152)、全山を焼失。その後「天正の兵火」で再び焼失、松山藩主の寄進で復興し、江戸中期には松平家の祈願所にもなったが、さらに明治7年には3度目の全焼、火災との苦闘を宿命にした。
駐車場からすぐ本堂に続く石段 鐘楼は左右二つあります。
銅板葺きの屋根を持つ本堂
本尊・十一面観音
大師堂
 護摩堂 仁王門は駐車場のずっと下にあります。
明治7年に火災に遭い昭和32年に建立された。 
 10ヶ寺参拝後、道の駅
天空の郷“さんさん”で休憩
 石鎚山SAで夕食を済ませ帰路に 
  今日の走行距離700km 10時過ぎ無事帰宅
   明石寺まで約89.5km


2015年10月30日 四国お遍路の旅に一人で行ってきました。残り7ヶ寺です。 愛媛県の端と高知県足摺岬です。一番遠い所、普通は一泊で行く所を日帰りで出かけます。早朝5時30分出発です エンジンをかけると38分と表示されています。 43番明石寺まで361km姫路西インターから山陽自動車道に入る頃になると空が明るくなってきました。 9時57分西予宇和インターをおります。インターから3kmほどで到着です 43番 明石寺 10時11分 、順調に行っています。


(げんこうざん えんしゅいん めいせきじ)

所在地:愛媛県西予市宇和町明石201
電話:0894-62-0032


【本尊】千手観世音菩薩(現世利益の仏様)
この地は乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされて、古来尊崇されてきた。6世紀の前半、欽明天皇(在位532〜71)の勅願により、円手院正澄という行者が唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされている。のち、天平6年(734)に寿元という行者(役行者小角から5代目)が紀州熊野から12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の
中心道場として法灯を伝承した。弘仁13年(822)には弘法大師がこの地を訪ねている。荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在809〜23)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興した。その後、鎌倉時代になってから再び荒れ果てた伽藍の修復に当たったのは、源頼朝である。建久5年(1194)、頼朝は命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた。  
駐車場から仁王門に向かう。両側から木々が迫った仁王門は古びて大きい
仁王門 仁王門の内部に大きな草鞋が奉納されています。
仁王門から・・石段を登ると山の樹木に
埋もれるように本堂が建っている
 【本尊】千手観世音菩薩
 本堂・・明治時代に全国の信者の浄財によって
建立した。屋根は唐破風造りで、左右両端が
反るように天を向き、柔らかい曲線を描いている。
 本堂から仁王門を見下ろす 鐘楼(江戸時代のもの)の先に大師堂 
 大師堂はこぢんまりと 境内に夫婦杉 
 延命地蔵尊がお祀りされています。 境内の石塔 
  明石寺から14Kmで42番・仏木寺です。 



(いっかざん びるしゃないん ぶつもくじ)

所在地:愛媛県宇和島市三間町字則1683
電話:0895-58-2216


【本尊】大日如来(宇宙最高の仏様)
大同2年のころ、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、光を放っているのを目にした。
 よく見ると、これは唐から帰朝するときに、有縁の地が選ばれるようにと、三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠であった。大師は、この地こそ霊地であると感得、堂宇の建立を決心した。大師は自ら楠で大日如来像を彫造、眉間に宝珠を埋めて白毫とした。これを本尊として安置し、「一山仏木寺」と名づけ、草字体で書写した『般若心経』と『華厳経』一巻を奉納されたと伝えられる。その後、寺は牛馬安全の守り仏、大日さまとして信仰をあつめ、鎌倉時代には宇和島領主・西園寺家の祈祷、菩提寺となるなど隆盛を誇った。戦国時代には戦乱に災いされるなど、苦難の道を余儀なくされたが、再建に励んで面目を一新し、活気に満ちている。 
田園風景の広がる中に仏木寺・仁王門があります。 阿吽像
 石段を少し登って仁王門をくぐると、又石段が・・・ 石段の上に 300年以上の歴史を持つ古い
茅葺の鐘楼堂が建っています。
 境内の真ん中に救世観世音菩薩像の
大きな石像が立っています。
1728年に造営された本堂 本尊・大日世来 
大師堂  聖徳太子堂 
 不動堂 42番仏木寺でお昼前になっています。
おにぎり・みかん等のお接待を受けました 

ごちそうさまでした。
仏木寺からは4km、龍光寺に11時46分到着です。



(いなりざん ごこくいん りゅうこうじ)

所在地:愛媛県宇和島市三間町大字戸雁173
電話:0895-58-2186


【本尊】十一面観音(災難除けの仏様)
大同2年(807)初午の日に弘法大師がこの地を巡錫された時、一人の白髪の老人が現れ、「我、この地に住み、仏法を守護し、諸民の利益せん」といわれ老人は姿をけしました。弘法大師はこの老人こそ稲荷大明神の化身と感得、五穀大明神の尊像を刻み稲荷山の 山号をつけ、龍光寺と名づけ本尊、十一面観世音菩薩を祀り寺を開創し、四国霊場の一寺に定めらました。もとの本堂は稲荷社となった為、
新しく下段に本堂を建て本地は仏の十一面観音が本尊となり、脇士の不動明王と毘沙門天が安置され、稲荷明神も大師勧請がゆえに、本尊と一緒に祀られている。これが「三間のおいなりさん」と呼ばれ親しまれて、農家の人々から篤い信仰をうけ、種まきのあと虫除けの参拝者が多いといわれています。  
鳥居の先が龍光寺です。 石段中央に赤い鳥居・稲荷社です。
石段を上がると水子地蔵尊がお祀りされ、
綺麗な花が手向けられています。
もとの本堂は稲荷社になったので、
新しく下段に本堂を、本尊・十一面観音
 南予七福神がお祀りされています。 大師堂 
 境内全体をワイドで・・・中央、稲荷社その左右に右に大師堂 左に本堂があります。
 石段をさらに上がった高台に稲荷社が・・・
明治初期の廃仏毀釈で元の本堂は稲荷社となった
境内から参道鳥居方面を望む 
龍光寺から50kmほどありますが、50km中、信号2個だけです。観自在寺13時19分到着



(へいじょうざん やくしいん かんじざいじ)

所在地:愛媛県宇和郡愛南町御荘平城2253-1
電話:0895-72-0416


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)
愛媛県は「菩提の道場」。その最初の霊場で、一番霊山寺からもっとも遠くにあり、「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる。寺があるこの町は、美しいリアス式海岸の宇和海に面した最南端で、海洋レジャーの基地、真珠の生産地としても知られる足摺宇和海国立公園の景観を存分に楽しむことができる。縁起をひも解くと、弘法大師が大同2年に平城天皇
(在位806〜09)の勅命を受けてこの地を訪れ、1本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置し、開創したとされている。このとき、残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、舟形の宝判を造って庶民の病根を除く祈願をなされた。寛永15年(1638)、京都・大覚寺の空性法親王が四国巡拝の折に宿泊され、「薬師院」の院号を授かっている。このころは七堂伽藍がそびえ、末寺48坊、寺領二千数百石という隆盛を誇っていたという。だが、火災によりすべての堂塔を焼失、その後は宇和島藩主・伊達家の祈願所として旧観の回復につとめ、法灯を守っている。
町中の高台にあって仁王門まで石段を登る 仁王門の中には十二支盤があって真ん中に
亀の子がいた。方位を見る亀らしい
仁王門の前に立つと、
正面に立派な本堂が見える。
鐘楼の鐘を突く。お参りを済ませた後に鐘を
突くのは「かえり鐘」といってよくないのだそうだ。
 宝聚殿 本堂手前に十二支の守り本尊である
菩薩の石像がずらりと並ぶ姿も圧巻
 本堂は昭和39年に建てられた鉄筋コンクリートで
母屋造りの豪壮な構えです。本尊・薬師如来
 樹木を背に建つ大師堂
総檜の宝形造り。平成5年に再建された。
 樹木の中に心経塔が建っている。 栄かえる(①親子孫三(さ)かえる①お金がかえる
①福がかえる①病気が引(ひき)かえる)
 広い境内から仁王門を 仁王門から門前町を・・・ 
  観自在寺から29kmで39番延光寺14時13分到着 




(しゃっきざん てらやまいん えんこうじ)

所在地:高知県宿毛市平田町中山390
電話:0880-66-0225


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)
  神亀元年(724)行基菩薩が聖武天皇の勅命により、諸病救済の薬師如来を刻み本尊として安置し堂を建てまつられたのがはじまり。のち弘法大師が延暦14年(795)桓武天皇の勅願所として再興され、脇侍に日光・月光両菩薩を安置し諸堂整え、四国霊場の一寺に定められました。この時、弘法大師が加持し、湧き出したのが眼洗い井戸です。延喜11年(911)に、梵鐘を背負って赤亀が海中から現れたので、赤亀山延光寺と改めたといわれています。鐘は重要文化財に指定され、寺に所蔵されています。
仁王門と鐘楼が隣合わせに 仁王門から延光寺境内
(左に大師像・右に大赤亀の石像
竜宮城伝説を象徴しており、赤い大きな亀が
背中に鐘を乗せています。
大赤亀の正面に大師像 
 正面に大師堂、右に本堂を・・ 池には緋鯉が泳いでいます。 
大師は「宝医水」と名づけ、眼病にも効くとされ、
眼の周りを浸している遍路さんが多いとか
 本堂 本尊・薬師如来
 大師堂 新西国霊場本尊がずらり並んでいます。 
延光寺からは高知県です。足摺岬にある金剛福寺までは63km



(さださん ふだらくいん こんごうふくじ)

所在地:高知県土佐清水市足摺岬214-1
電話:0880-88-0038


【本尊】三面千手観音立像(現世利益の仏様)
弘仁13年(822年)、弘法大師が嵯峨天皇(在位809~823年)から「補陀落(ふだらく、インド南岸の観音様の住む山のことで、観音浄土として崇拝されている土地)東門」の勅願を賜り、伽藍を建立し、 千手観世音菩薩を刻んで安置したのが金剛福寺の始まりです。平安時代の後期には、すでに観音霊場として都にも聞こえるほどの信仰を集め、和泉式部も訪れています。また、源氏一門とも縁が深く、多宝塔や諸堂宇の寄進を受けています。五摂家のひとつである一条家の庇護を受け土佐最大の寺院として栄えました。その後、一時荒廃しましたが、江戸時代に土佐二代藩主・山内忠義が修復再興しました。明治の廃仏毀釈にあった後は、住職天俊等の努力により再興されました。又、大師因縁の「足摺七不思議」といわれる遺跡が、岬の突端をめぐるように点在しています。
ビロウ樹などの亜熱帯の樹木に囲まれた仁王門 ビロウや椿の林を通って山門をくぐると、
いかにも南国らしく亜熱帯性の
植物が生い茂った広い境内に出ます。
龍の手水舎 石段の先が本堂になっています。
 本堂 本尊・三面千手観音立像 本堂から境内の中央には広い人工池が 
 本堂横には愛染堂 権現堂の前を通り大師堂へと
前方に鐘楼  地蔵尊の石畳を通り大師堂へと 
 大師堂 水面に映る本堂 
本堂の裏手へ足を踏み入れると、目の前に姿、形が
それぞれ異なる仏像108体が現れた。
干支
守護仏である「八体仏」をはじめ、死後の世界で
初七日から三十三回忌までの間、極楽浄土へ
行けるよう導いてくれる「十三仏」、大日如来などの
「五智如来」が巡礼者たちを迎えてくれます。
不動堂 
源氏一門の多宝塔がそびえています。  境内に大師亀の像がありました。 
金剛福寺ゆっくりお参りを済ませ足摺岬を
時間を気にせずぶらぶらします。
 遊歩道を足摺岬灯台へと
遊歩道の所々に足摺7不思議が・・・地獄の穴・・この穴に硬貨を落とすとチリンチリンと音をたてながら落ちて行きます。穴は金剛福寺の本堂の下まで通じていると言われています。硬貨を落としてみましたがすぐ下で音がしたようです。ネットで調べると現在は穴は埋もれて跡を在するのみのようです。 
7不思議の一つ 大師の爪書き石・・・
この岩肌に弘法大師が爪で「南無阿弥陀仏」の
6文字の名号を彫っています。
7不思議の一つ・・・亀呼場・・弘法大師がここから
亀を呼び、眼下の不動岩に渡り身体安全、
海上安全の祈祷をされたといわれ、
この場所から亀を呼ぶと、その亀が
浮かびあがってくるといわれています。
亀呼場から不動岩を望む
亀呼場から沈む夕日を・・・海面にキラキラ輝いて
います。ひとりのんびり眺めていると
中国の団体さんが・・・早々に退散
 灯台を見上げる。 
蜘蛛が宙に浮いているようです
中国の団体さんを逃れ天狗の鼻へと・・・・
遊歩道両脇にツワブキの花が
  天狗の鼻から足摺岬灯台を望む
天狗の鼻は足摺岬を写す絶景の
撮影ポイントになっています。
展望台から天狗の鼻を望む
 
  展望台から灯台を
 ジョン万次郎像 
十分ぶらぶら後、カーナビに自宅を検索すると423km 到着時間12時過ぎ 
現在時間5時 えぇ7時間以上かかるのか
 ( ̄□ ̄;)!!
足摺スカイラインから沈む夕日を・・・100km
くねくね道 四万十から高知高速道路へと
 SA南国 19時59分 20分ほど休憩  
 夕食は、南国ラーメンを頂きます 
  
 くねくね道を100km程走ると岩本寺の案内板がヘットライトに浮かびます!!
  21時32分 瀬戸大橋を・・・
22時03分 吉備SAで2度目の休憩 
 23時30分 無事帰宅 走行距離970キロ   一日走行距離 今まで最高距離です。


2016年3月31日~4月1日 1泊2日で四国八十八ヶ所一ヵ所だけ残っていた札所37番岩本寺へ
孫たちと行ってきました。 1日目淡路花さじきに菜の花見学、その後は鳴門渦潮クルーズ 
四国愛媛県道後温泉へと向かいます。

(ふじいさん ごちいん いわもとじ)

所在地:高知県高岡郡四万十町茂串町3-13
電話:0880-22-0376


【本尊】
 阿弥陀如来(極楽往生を約束する仏様)
 聖観世音菩薩
 不動明王(大日如来の化身)
 薬師如来(病気を治す仏様)
 地蔵菩薩(天界から地獄まで救う仏様)
行基菩薩が聖武天皇の勅命を奉じ、仁井田郷に天の七星を形どって仁井田明神の傍らに七ヶ寺を建立し仁井田七福寺と総称していました。のち弘仁年間に弘法大師がこの地を巡錫され、この七福寺の中心的な寺であった福円満寺を藤井山と改名し、星供養曼荼羅を書写して三国相承の星供修法をして、山号五智院と号し四国霊場と定められました。ここではご本尊が5躰も祀られていることで名高い。
13時51分 37番札所 岩本寺 到着 
雨も止んできました。
岩本寺 仁王門
山門すぐに、歓喜天(聖天堂)と大師堂が
200年ほど前の建造物で、境内では最も古い。
大師像と鐘楼
大師堂
 
本堂 本尊・阿弥陀如来・観世音菩薩・
不動明王・薬師如来・地蔵菩薩 
開山堂
方丈 宿泊施設にもなっています。 
 参拝の後は高知城へと・・・4月1日~3日まで和で綴る花と灯り「花回廊」が開催せれています。
最高のタイミングです。  高知城へとリンク


2014年12月22日 高知県に1泊2日、お遍路の旅と、ちょっと観光に行ってきました。今回は孫も一緒です。修行式が終わるのを待って12時過ぎにゆっくり出発です。高知県までは260キロ四国に入ると有料道路両脇には雪がいっぱい残っていました。2寺お参り後、今晩宿泊地「国民宿舎 土佐」へと・・・。
 国民宿舎 土佐。 ちょっと贅沢プラン9000円で
宿泊です。 「かつおのタタキうまい」・・・
私は食べれません
 露天風呂に行く途中夜景と
カフェファールブランを
太平洋を一望できる露天風呂。 
11時~22時まで朝の露天風呂は無理のようです。
朝の入浴は内風呂でゆったり
部屋から太平洋を望む 日の出 真っ赤な太陽が昇ってきました。
  国民宿舎 土佐外観
8時30分出発36番札所へと
駐車場にいのししが・・・大きいのは鎖でつながれていますが、小さいのは近寄ってきます。ゆっくり逃げます近くでおじさん8ヶ月の子供だから大丈夫と・・・


 
(どっこざん いしゃないん しょうりゅうじ)

所在地:高知県土佐市宇佐町竜163
電話:088-856-3010

【本尊】波切不動明王(大日如来の化身)

弘法大師が唐に渡り、長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の秘法を授かって真言第八祖となられ、帰朝したのは大同元年(806)であった。縁起では、大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願した。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去った帰朝後、大師がこの地で巡教の旅をしているときに、
独鈷杵はいまの奥の院の山の老松にあると感得して、ときの嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上した。大師は弘仁6年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」を名のっている。本尊の波切不動明王像は大師が入唐のさい、暴風雨を鎮めるために現れたと伝えられ、いまも航海の安全や豊漁、世間の荒波をも鎮めてくれると、深く信仰されている。  
国民宿舎土佐からすぐの坂道に青龍寺奥ノ院(200m)への入口が眼につき行ってみる事に
石段を登りきると奥ノ院が両脇には石仏が
ここから土足厳禁(横にスリッパが置かれています)
大聖不動明王がお祀りしてあります。
 駐車場横に青龍寺鐘楼門 石段を上り仁王門へと(横に弘法大師像が) 
青龍寺・仁王門 仁王門をくぐりと両脇に水子地蔵尊と聖天堂
本堂への長い石段 
 仁王門をくぐると左手に滝がある。そのそばには
平成4年建立の三重塔が緑の木立ちの中に建っている。 
本堂の後ろには木々が生い茂っています。
本尊・波切不動明王
大師堂・本堂の左側に建っています。 

青龍寺からちょっと観光の桂浜へと・・桂浜は雄大な太平洋に面した景勝地。月の名所としても名高く,よさこい節にも唄われています。一帯は都市公園として整備されていて、桂浜水族館屋坂本龍馬記念館なども公園内に建っています。
龍王展望台方面を望む 青い空と白い砂、真っ青な海がまぶしい 
龍頭岬  龍王岬展望台へと向かいます。 
龍宮橋  高台に建つ‟海津見神社”
展望台から海津見神社を  展望台から太平洋を・・
寒波もどこえやら最高の天気です。  
はるか太平洋を見すえて立つ坂本龍馬像
  土佐闘犬センターで、横綱健龍の土俵入りと
子犬ふれあいが体験出来ます。 (入場500円)
土佐犬仔犬 生後2ヶ月だそうですが大きいです。
手足が大きくふにゃふにゃで触ると
気持ち良かったです。  
 桂浜で2時間ほどぶらぶら後、35番札所へと急ぎます。
   清滝寺まで約17.4km 



(いおうざん きょうちいん きよたきじ)

所在地:高知県土佐市高岡町丁568-1
電話:088-852-0316


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)
清滝寺は医王山の山腹にある。車が交代出来ない山道を延々と登ったところにある。清滝寺は養老7(723)年に訪れた行基が、自分で薬師如来を刻み本尊としたことに始まる。その当時は景山密院釈木寺という寺号だった。その後弘法大師が巡錫した時に、本堂より北300mほど上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して閼伽井権現と龍王権現に17日間の修法を行った。その満願の日に金剛杖をつくと地面から清水が湧き出てきて鏡のような池ができた。そこで大師が寺名や院号を現在のものに改めたと伝えられている。  
 海抜400mのところにある閑静な山寺。境内で
まず目に付くのは本堂前に立っている薬師如来の立像
清滝寺 本堂と大師堂は並んで建っています。
本尊・薬師如来(一木造りの彩色像で平安時代の作) 
薬師如来の台座の下は戒壇めぐりになっています。
台座へ入ると、その中は真っ暗で小刻みの88の階段。ここを薬師如来のご真言を唱えながら
ひと回りする。これが戒壇めぐり。本当の闇は恐ろしい。すぐに出る事ができるが不安になる
大師堂 鐘楼
 納経所への道は手入れされた
庭園になっています。
境内から眼下を望む
   種間寺まで約11.3km



(もとおざん しゅじゃくいん たねまじ)

所在地:高知県高知市春野町秋山72
電話:088-894-2234


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)
土佐湾の沿岸は、四国霊場のメッカのようである。種間寺もその一つで、土佐湾の航海に結びついた興味深い縁起が伝えられている。6世紀のころである。敏達天皇の6年(577)百済の皇子から多くの経論とともに、仏師や造寺工を贈る旨の勅書がとどいた。彼らが渡来したのは用明天皇(在位585〜87)の時代、大阪・四天王寺の造営にあたった。ようやく落慶し、その帰途の航海中であった。土佐沖で強烈な暴風雨におそわれて、種間寺が建つ本尾山にほど近い秋山の港に難を逃れて寄港した。彼らは、海上の安全を祈って約145cmの薬師如来坐像を彫造し、本尾山の山頂に祀った。これが寺の起源とされている。その後、200年以上が経過して、唐から帰朝した弘法大師がこの地を訪ねたのは弘仁年間である。大師はその薬師如来像を本尊として安置し、諸堂を建てて開創された。その折に唐からもち帰った種子の米、麦、あわ、きび、豆またはひえの五穀を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けたといわれる。  
この種間寺は、周囲に田んぼが広がるのんびりとした穏やかなお寺です。
お寺の入口に鐘楼と弘法大師像が迎えてくれます
境内にりっぱな赤松 子育観音・底のない柄杓が奉納されています。
 昭和55年に台風の被害を受け、鉄筋コンクリートの本堂
本尊・薬師如来
大師堂 
   雪蹊寺まで約7.3km



(こうふくざん せっけいじ)


所在地:高知県高知市長浜857-3
電話:088-837-2233


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)

土佐湾の桂浜は、白砂の美しい月の名所として知られる。幕末の志士、坂本龍馬の銅像が立っていることでも名高い。雪蹊寺はそこから西へ約4キロほどである。弘法大師によって弘仁6年に開創された
頃は、真言宗で、「高福寺」と称した。その後、寺名を「慶運寺」と改めているが、廃寺となっていた寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっている  
駐車場からすぐ境内へと 正面に本堂と大師堂が並んで建っています。
境内入ってすぐに梵楼 雪蹊寺 本堂 本尊・薬師如来
大師堂 境内には馬頭観世音菩薩がお祀りしてあります 
禅師峰寺まで約10km



(はちようざん ぐもんじいん ぜんじぶじ)

所在地:高知県南国市十市3084
電話:088-865-8430


【本尊】十一面観世音菩薩(災難除けの仏様)

太平洋のうねりが轟く土佐湾の海岸に近い。小高い山、標高82mほどの峰山の頂上にあることから、地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれ、親しまれている。縁起によると、行基菩薩が聖武天皇
(在位724〜49)から勅命をうけて、土佐沖を航行する船舶の安全を願って、堂宇を建てたのが起源とされている。のち、大同2年、奇岩霊石が立ち並ぶ境内を訪れた弘法大師は、その姿を観音の浄土、仏道の理想の山とされる天竺・補陀落山さながらの霊域であると感得し、ここで虚空蔵求聞持法の護摩を修法された。このとき自ら十一面観世音菩薩像を彫造して本尊とされ、「禅師峰寺」と名付け、また、峰山の山容が八葉の蓮台に似ていたことから「八葉山」と号した。以来、土佐初代藩主・山内一豊公はじめ歴代藩主の帰依をうけ、「船魂」の観音さんは今も一般の漁民たちの篤い信仰を集めている。  
禅師峰寺駐車場に十一面観音像 十一面観音像横から境内への石段が続く
仁王門手前に不動明王と弁財天が
お祀りしてあります
仁王門の金剛力士像は、鎌倉時代の仏師、
定明の作で国指定重要文化財
 仁王門をくぐると石段脇には屏風岩が
そそり立っている
 石段を登りきると可愛い石仏が
 禅師峰寺 本堂 
寺の周りにも自然の岩石がいくつもあります
本堂内部 本尊・十一面観音像 
大師堂 境内から土佐湾が見渡せ、眼下には
ビニールハウスが並んでいる。 
 たぬきの大師像・手にみかんを 参道石段から駐車場と土佐湾を 
   竹林寺へは7.4km



(ごだいざん こんじきいん ちくりんじ)

所在地:高知県高知市五台山3577
電話:088-882-3085


【本尊】文殊菩薩(悟りの智恵を授ける仏様)
♪土佐の高知の播磨屋橋で坊さんかんざし買うを見た…で有名な「よさこい節」の舞台であるほか、学僧・名僧があつまる「南海第一道場」とされた学問寺院としても知られる。土佐の信仰や文化の中心地とも、土佐随一の名刹ともいわれた。縁起では、神亀元年ころ、聖武天皇(在位724〜49)が中国・五台山に登り、文殊菩薩に拝した夢を見た。天皇は、行基菩薩に五台山の霊地に似た山容を見つけるよう命じた。行基菩薩はこの地が天皇の霊夢にふさわしいと感得、自ら栴檀の木に文殊菩薩像を彫り、山上に本堂を建てて安置した。その後、大同年間(806〜10)に弘法大師がここに滞在して瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復、霊場にされたという。  
駐車場から境内への参道 竹林寺・庭園
鐘楼の横を通り仁王門へと 仁王門
 仁王門をくぐるとずっーと先まで続く石段 参道両脇にはキャンドル?
 お寺ではキャンドルと言わないか
石段を登りきると五重塔が
眼に飛び込んできます。
竹林寺 本堂 本尊・文殊菩薩
大師堂 インドブッダガヤより勧請された仏舎利を納め、
また初層内陣に大日如来が奉安 
   善楽寺へは約11km



(どどざん とうみょういん ぜんらくじ)

所在地:高知県高知市一宮しなね2丁目23-11
電話:088-846-4141


【本尊】阿弥陀如来(極楽往生約束する仏様)
高知城へは約6km、JR高知駅まで約4kmというこの辺り一帯は、往時「神辺郷」といわれ、土佐では最も古くから栄えた地方である。 縁起によると、桓武天皇が在位(781〜806)されていたあとの大同年間に弘法大師がこの地を訪れ、土佐国一ノ宮・総鎮守である高鴨大明神の別当寺として、善楽寺を開創され霊場と定められた。以来、神仏習合の寺院として法灯の護持につとめ、神仏の信仰を啓蒙して栄えている。とくに土佐2代藩主・山内忠義公のころには武門の庇護をうけて寺は興隆し、繁栄をきわめた。だが、明治新政府による廃仏毀釈の難を受けて寺運は一変し、昭和4年に再興されるまで苦難の日々が続いた。その後、2ヶ寺で納経ができるなど混迷の時期を経て、平成6年1月1日を以って「善楽寺」は第三十番霊場として現在にいたっている。  
車道からすぐの処に十一面観音菩薩像 三段の石段を上ると本堂と
大師堂が並んで建っている
 まだ新しい本堂 本尊・阿弥陀如来 本堂左隣の大師堂は大正時代の建立
 大師像は「厄除け大師」として知られている
大師堂の前には弘法大師像がある。
23日巡礼後、高知城へ・・・4時30分閉門 中に入ることが出来ず車道から・・・ 
   国分寺へは約10.2km



(まにざん ほうぞういん こくぶんじ)


所在地:高知県南国市国分546
電話:088-862-0055


【本尊】千手観世音菩薩(現世利益の仏様)
 土佐の国分寺といえば、平安中期の歌人、紀貫之(868〜945頃)が浮かんでくる。とくに貫之が著した『土佐日記』は、女性の筆に託して書かれた仮名日記であることはあまりにも有名であるし、貫之が国司として4年間滞在した国府は、国分寺から北東1kmほどの近くで「土佐のまほろば」と呼ばれ、土佐の政治・文化の中心であった。聖武天皇(在位724〜49)が『金光明最勝王経』を書写して納め、全国68ヶ所に国分寺を建立したのは天平13年のころ。土佐では行基菩薩が開山し、天下の泰平と五穀の豊穣、万民の豊楽をねがう祈願所として開創された。歴代天皇からの尊信が厚く、加護をうけてきた。縁起によると、弘法大師がこの地を巡錫したのは弘仁6年(815)のころで、毘沙門天像を彫造して奥の院に安置された。その際に本堂で真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修められた。以来、土佐国分寺は「星供の根本道場」となっている。 
仁王門は明暦元年(1655)、土佐2代藩主・
山内忠義公の寄進で豪壮な二層造り
仁王門先正面が本堂
 本堂前は枝垂れ桜の木。満開の時は見事だろう 酒断地蔵尊 
本堂手前右参道の先に光明殿、1250年余の面影を残す境内地は、全域が
国の史蹟に指定され、杉苔が美しい庭園で「土佐の苔寺」ともいわれている。
本尊・千手観世音菩薩を祀る国分寺の本堂は、
長宗我部元親が、永禄元年に再建・柿葺き、寄棟造り
大師堂 
開山堂の前に寒桜 寒さに負けず咲く寒桜 
   大日寺へは約10.9km


2014年12月5日、四国八十八ヶ所遍路旅・高知県へ行って来ました。加古川から鳴門橋・徳島・高知県、最御崎寺まで約260k、7時出発で最御崎寺に到着したのが12時です。これでもカーナビ到着時間より1時間短縮です。24番札所から28番札所までは、室戸阿南海岸国定公園に指定されている一帯を行く。太平洋を望む海岸線は美しいが、その長い事。昔の遍路は大変な道中だったに違いないと、先人たちの一途な信念が胸にせまる。
最終寺大日寺参拝後、徳島県は大雪高速道路通行止め、私たちは瀬戸中央道・山陽自動車道へ640k走行無事帰宅となりました。


(ほうかいざん こうしょういん だいにちじ)

所在地:高知県香南市野市町母代寺476-1
電話:0887-56-0638


【本尊】大日如来(宇宙最高の仏様)
縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の尊像を彫造し、堂宇に安置して開創されたと伝えられる。その後、寺は荒廃したが弘法大師が四国を巡教された弘仁6年(815)、末世の人々の安泰を祈り、楠の大木に爪で薬師如来像を彫られ、これを祀って復興されたという。以後、隆盛を誇り、七堂伽藍や末寺、脇坊も備わり、17世紀初頭の慶長年間(1596〜1615)からは土佐藩の祈願寺となって、堂塔も整備された。しかし、明治新政府の神仏分離令によって一時は廃寺となったが、本尊は「大日堂」と改称した本堂に安置していたので救われ、明治17年に再興されて現在にいたっている。  
大日寺・仁王門 仁王門をくぐると長い石段が続く
鐘楼・本堂までは敷石が続く 敷石以外は白い玉砂利が敷き詰められている。
本堂 本尊・大日如来
 檜と松を使って平成9年に再建されたが、
釘を使わず木組みだけで造られた。
 大師堂 
昭和58年に改修。
 奥ノ院への参道紅葉が夕日に照らされて 奥ノ院 


(ちくりんざん じぞういん こうのみねじ)

所在地:高知県安芸郡安田町唐浜2594
電話:0887-38-5495


【本尊】十一面観世音菩薩(災難除けの仏様

神峯山中腹の標高450メートルに山門、境内が広がる。幕末のころ、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の母が、20km離れた家から急な坂道を21日間(三七日)日参し、息子の出世を祈願した話は、いまも伝わっている
縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后(在位201〜69)の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされる。聖武天皇(在位724〜49)の勅をうけた行基菩薩が天平2年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。その後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている。明治初期、新政府の神仏分離令により、天照大神などを祀る神峯神社だけが残り、本尊は二十六番金剛頂寺に預けて一時廃寺の悲運に遭った。明治中期に、もと僧坊の跡に堂舎を建立して本尊を帰還させ、霊場は復活した。  
神峯寺への途中。道の駅・キラメッセ室戸から雄大な太平洋を望む
駐車場から急坂を上ると仁王門 仁王門をくぐると広い境内になっています。
石段の両側には樹齢数百年の古木と、美しく整備された日本庭園が四季折々の花を咲かせる。
お迎え大師像 大師堂 
経堂とみちびき弘法大師像 経堂の前に仏足跡の石碑が 
本堂 本尊・十一面観音 手入れが行き届いた日本庭園を見下ろす 
   金剛頂寺まで約31.6km


(りゅうずざん こうみょういん こんごうちょうじ)

所在地:高知県室戸市室戸町元乙523
電話:0887-23-0026


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)
  室戸岬から海岸沿いに西北に向かうと、土佐湾につき出した小さな岬がある。硯が産出するので硯が浦ともいわれる「行当岬」である。その岬の頂上、原始林の椎に覆われて静寂さがただよう境内が金剛頂寺です。この地は弘法大師が修行した霊地であり本尊は薬師如来で、これは大師が刻んで完成させたもの。完成するとその薬師如来が自分の手で堂の扉を開いて、そのまま鎮座したと伝えられている。室町時代に堂宇を罹災したこともあったが復興ははやく、長宗我部元親の寺領寄進や、江戸時代には土佐藩主の祈願所として諸堂が整備されている
厄除け坂の先が仁王門 男坂・女坂が続く
樹木に被われた金剛頂寺の仁王門 仁王門の先にも本堂に続く石段が
石段を登りきると大師像 本堂 本尊・薬師如来
霊寳殿・昭和になって注目されるのは正倉院様式の宝物殿「霊宝殿」の建立である。平安時代に大師が各地を旅したときの「金銅旅壇具」は、わが国唯一の遺品であり、重要文化財が数多く収蔵されている。 癌封じの椿御霊木
大師堂  男坂女坂の石段に紋章が 
  津照寺まで約6.3km 

 
(ほうしゅざん しんごんいん しんしょうじ)

所在地:高知県室戸市室津2652-イ
電話:0887-23-0025


【本尊】地蔵菩薩(天界から地獄まで救う仏様)

室津港を見下ろす小山の上にたたずむ「津照寺」は、通称「津寺」(つでら)と呼ばれています。弘法大師空海上人が四国御修行の砌、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠に似ているところから霊地とし地蔵菩薩を自ら刻まれ本尊とし、宝珠山真言院津照寺と号されました。はじめ長曽我部氏の庇護をうけ津寺村と
称して七町余の地高を有しその後、山内氏が国主として入国してより更に一町五反余の田地を寄附され寺院の運営も全て藩営とされ中老格をもって遇され隆盛を極めていたが、明治の改革に遭い地領は一旦政府に没収亦は小作農民に払い下げとなり寺は廃寺とされました。 荒廃にまかすこと約十数年明治十六年ようやく寺名復興を許され今日に至ったが寺域は極度に狭められ昔日のおもかげはなくなり、大師堂は昭和38年、本堂は昭和50年に新築された。  
街並みの先に津照寺 津照寺・仁王門
まっすぐ伸びる石段の先に竜宮城の
ような鐘楼門が見える
仁王門をくぐるとすぐ左手に大師堂
 100余りある石段をゆっくり登る。  石段の両脇は緑の樹木に覆われ写経大師尊像も
お祀りされています。
鐘楼門 鐘を一突き
本堂 本尊・楫取地蔵菩薩  本堂は小高い
丘陵にあり、海からの強い風が吹きつけてきます。
鐘楼門、裏側見ても竜宮城のよう
  最御崎寺まで約6.3km


(むろとざん みょうじょういん ほつみさきじ)

所在地:高知県室戸市室戸岬町4058-1
電話:0887-23-0024


本尊】虚空蔵菩薩(智慧と記憶力を授けてくださる仏様)
「修行の道場」とされる土佐最初の霊場。太平洋の白い波涛が吠えたてる室戸岬の突端にある。黒潮のしぶきにあらわれて鋭角になった黒い岩礁。そのすさまじい響き、空と海が一体となり襲いかかる洞窟の樹下で、藤衣を被って風雨を凌ぎ、虚空蔵求聞持法の修法に励む青年・空海がいた。延暦11年(792)、弘法大師19歳のころとされている。大同2年、唐から帰朝した翌年に大師は、勅命をうけてふたたび室戸岬を訪ねている。虚空蔵求聞持法を成就したこの地に、本尊とする虚空蔵菩薩像を彫造して本堂を建立、創した。当時は、真言密教の道場とされ女人禁制の寺であった。女性の遍路は遙か室戸岬の先端から拝んだといわれるが、明治5年に解禁されている。南国情緒を味わう室戸阿南国定公園の中心にあり、大師が悟りの起源の地でもある。  
室戸阿南海岸国定公園に指定されています。 夫婦岩へと下っていきます。
夫婦岩 海岸線に大きな弘法大師像
最御崎寺の少し手前の国道沿いには御蔵洞という洞窟があります。ここは大師の修行の場であった。 
大師が修行した場所から外を見る 南国の植物が生い茂る洞窟(こちらは立入禁止)
御蔵洞前道路から乱礁 遊歩道を・・・
遍路旅ではなかったら下りていくのに・・・
室戸岬の山頂に建つ最御崎寺
手前から海岸線を望む 
最御崎寺・お迎え大師像 急坂の 参道
最御崎寺・仁王門  境内には石仏が
前方本堂  鏡石・ 班れい石で小石を叩くと鐘のように
音を発し、この響きは冥土まで届くと言われ、
俗に鐘石と呼ばれています。
鐘楼堂 多宝塔
本堂 本尊・虚空蔵菩薩  大師堂
  薬王寺まで約77km 


2014年11月20日、遍路旅に出かけました。今回は18番恩山寺~23番薬王寺まで6ヶ寺参拝です。
予定では高知県最初の札所まで行きたかったが朱印は5時まで、距離は77k時間的に無理と思い今回は23番札所迄で断念・・・。帰る時間までは十分あるので、薬王寺駐車場にある薬王寺温泉に入浴・入浴後薬王寺瑜祇塔から見えた、日和佐城に行ってみる事にしました

(いおうざん むりょうじゅいん やくおうじ)

所在地:徳島県海部郡美波町奥河内寺前285-1
電話:0884-77-0023


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)
発心の道場といわれる阿波最後の霊場。高野山真言宗の別格本山でもある。厄除けの寺院としては全国的に有名
縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願によって行基菩薩が開創したとされている。弘仁6年(815)弘法大師が42歳のとき自分と衆生の厄除祈願のため薬師如来を刻み本尊として安置。文治4年(1188)火災で焼失。本尊は光ながら近くの玉厨子山の方向に飛び去り、後に寺を再興。新しい開眼供養をしていると、先の本尊が後ろ向きで帰ってきた。本尊は前向きと後ろ向き二体が本堂に納められているという  
薬王寺・仁王門 女厄坂へと続く参道
「女厄坂」といわれる33段。 急勾配の石段「男厄坂」が42段。
本堂 本尊・薬師如来 大師堂 
町指定天然記念物・薬王寺の大楠  霊牌堂
本堂から「瑜祇塔」(ゆぎとう)までは男女の「還暦厄坂」と呼ばれる61段からなっています。
各石段の下には『薬師本願経』の経文が書かれた小石が埋め込まれており、お賽銭をあげながら
お参りすると、身に降りかかる厄難が落ちると言われています。
瑜祇塔から日和佐川と日和佐港を望む  山の上にお城(日和佐城) 
 薬王寺参拝後駐車場に日帰り温泉が・・・
誰も入ってないのでパチリ 極楽極楽で~す。
薬王寺から見えた日和佐城へと山を
登ってきました。 (勿論車で) 
 日和佐城・・内部は昭和遺産展示中)無料です。 昭和時代に使っていた道具がずらり。 
映画も昭和時代放映分 懐かしいです。  天守閣へはラセン階段 
天守から薬王寺・瑜祇塔を望む 天守から日和佐港・日和佐川に架かる厄除橋
(薬王寺への参道) 
  平等寺まで約 24km


(はくすいざん いおういん びょうどうじ)

所在地:徳島県阿南市新野町秋山177
電話:0884-36-3522


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)
延歴11年(792)弘法大師により開基。 弘法大師がこの地でご修行のみぎり空中に5色の霊雲がたなびき、その中に黄金の梵字が現れました。大師が歓喜して加持されると薬師如来の尊像が現れて光明が四方に輝いたのです。大師がさっそく加持水を求め杖で井戸を掘られたところ、乳のごとき白い水が湧き溢れました。その霊水で身を清められた大師は100日の修行の後に薬師如来像を刻み本尊として安置し、人々が平等に救済されるようにとの願いをこめて山号を白水山、寺号を平等寺と定められたのです。天正年間に長宗我部の兵火によって焼失し、江戸時代中期に再興されて現在に至っています。  
平等寺・山門 山門阿吽像
本堂・厄除け年の石段上本堂・弘法大師像 男坂の左下にあり、どんな日照りにも枯れることなくこんこんと湧き出ております。現在は無色透明で、万病にきく「弘法の霊水」として全国に知られています
本堂 本尊・薬師如来 本堂から山門を見下ろす 
大師堂 コスモス畑と平等寺を・・・
  太龍寺まで約 12km

 
(しゃしんざん じょうじゅういん たいりゅうじ)

所在地:徳島県阿南市加茂町龍山2
電話:08846-2-2021


本尊】虚空蔵菩薩(智慧と記憶力を授けてくださる仏様)
「西の高野」とも称される。四国山脈の東南端、標高618メートルの太龍寺山の山頂近くにある。
延暦17年(798)桓武天皇(在位781〜86)の勅願により開基。延暦7年(788)弘法大師15歳の時、修行の為登られ、19歳の時再び入山。
弘法大師自ら虚空蔵菩薩像を刻まれ本尊とし、太龍寺と名付けられる。一時荒廃したが、天長2年(825)淳和天皇の勅命により再興。 仁王門は鎌倉時代の建立で、他の堂塔は江戸時代以降に復興している。四国巡礼者にとって、屈指の難所であったこの山岳寺院にロープウエーが開通したのは平成4年である。徒歩では、中腹の駐車場から坂道を登るのに30分も要していた。1,200年のむかし、大師の修行時代をしのばせる迫力、風格をそなえた古刹である。 
郡那賀町 道の駅鷲の里
開運橋を渡りロープウェイ乗り場へと
全長2,775メートルで四国最高峰石鎚山、
次峰剣山、そして弘法大師空海の修行地
太龍寺、この三霊山が一直線で結ばれています。
(運賃2,470円ちょっと高かも)所要時間約10分
眼下の那賀川を・・高さ100mほどあるそうです。 一号支柱、剣山山系を越えます。
 ロープゥエイ中心交代します。 岩の上にお遍路姿の人が手を振っています。 
太龍寺山頂駅が目の前に  太龍寺本堂への石段
 (右側スロープの道山門へと続く)
 二つ目の石段が続きます。 3つ目で本堂へと続く石段 
 本堂 本尊・虚空蔵菩薩 本堂から登って来た石段を・・ 
石橋の先が 大師堂 大師堂 
多宝塔(ただ今修理中) 守護の大杉(境内を風雨雪から守る天然巨杉) 
樹齢600年・樹高48m・幹4m)
 弘法大師像 護摩堂
降剣場 降剣場の天井に描かれた龍
太龍寺・鐘楼門 スロープの道をロープウェイ乗り場へと 
ロープウェイから・・岩場の太龍嶽(舎心嶽)の
上で修行している様子の空海の座像が確認できる
昔、山犬が生息していたとか・・・山犬の像が
那賀川と鷲の里山麓駅が眼下に 迫ってきます。 道の駅鷲の里 手入れされた庭園
鶴林寺まで約10km (沼井、持井深瀬経由 27km)


(りょうじゅざん ほうじゅいん かくりんじ)

所在地:徳島県勝浦郡勝浦町生名鷲ヶ尾14
電話:08854-2-3020


【本尊】地蔵菩薩(天界から地獄まで救う仏様)
  標高550メートルの鷲が尾の山頂にあり、遠く紀州や淡路の山峰、遙かに太平洋を眺望できる風光明媚な霊山が境内である。寺伝によると延暦17年、桓武天皇(在位781?806)の勅願により、弘法大師によって開創された。大師がこの山で修行していたとき、雌雄2羽の白鶴がかわるがわる翼をひろげて老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護していた。この情景を見て歓喜した大師は、近くにあった霊木で高さ90センチほどの地蔵菩薩像を彫造、その胎内に5.5センチぐらいの黄金の地蔵さんを納めて本尊とし、寺名を鶴林寺にしたといわれる。阿波一帯の寺が兵火に遭遇した「天正(1573?92)の兵火」にも、山頂の難所にあるためか難を免れている。「お鶴」「お鶴さん」などと親しまれ、山鳥が舞う大自然そのままの寺である。
鶴林寺・山門 山門をくぐると参道斜面の苔の緑がまぶしい
樹齢千年を超すような老杉、檜や松の
巨木が参道を覆っいます。
忠霊殿と紅葉
本堂への石段  本堂 本尊・地蔵菩薩
(左右に 雌雄2羽の白鶴)
本堂横に三重塔 大師堂
  立江寺まで約5km


(きょうちざん まにいん たつえじ)


所在地:徳島県小松島市立江町若松13
電話:08853-7-1019


【本尊】地蔵菩薩(天界から地獄まで救う仏様)
高野山真言宗の別格本山。「四国の総関所」として四国八十八ヶ所の根本道場といわれ、また「阿波の関所」としても知られる。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願で行基菩薩によって創建された。勅命により行基菩薩が光明皇后の安産を祈るため、念持仏として5.5センチほどの小さな黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。これを「延命地蔵菩薩」と名づけて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられる。弘仁6年(815)、弘法大師が当寺を訪れ、このご本尊を拝した。大師は、あまりに小さなご本尊なので、後世になって失われる恐れがあると、自ら一刀三礼をして新たに像高1.9メートルもある大きな延命地蔵像を彫造され、その胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。  
 立江寺・山門  弘法大師像と多宝塔
観音堂      本堂 本尊・延命地蔵菩薩        護摩堂
「天正の兵火」(1575〜85)では立江寺も逃れられず、壊滅的な打撃を受けた。
だが本尊だけは奇しくも難を免れている。また、昭和49年の祝融の災にもご本尊は救い出されている
本堂から多宝塔・大師堂を見る。 大師堂
  恩山寺まで約 5km


(ぼようざん ほうじゅいん おんざんじ)

所在地:徳島県小松島市田野町字恩山寺谷40
電話:08853-3-1218


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)
小松島市郊外の小高い山の樹林が心地よい、県指定の風致地区にあります。創建は聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基が開創。災厄悪疫を救う女人禁制の道場であった。
弘法大師がこの寺で修行をしていたころという。大師の生母・玉依御前が讃岐の善通寺から訪ねてきた。だが、寺は女人禁制、大師は山門近くの瀧にうたれて17日間の秘法を修し、女人解禁の祈願を成就して母君を迎えることができた。やがて母君は剃髪をして、その髪を奉納されたので、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め、自像を彫造して安置され「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われた。弘仁5年(814)ころのことと伝えられる。寺は「天正の兵火」で焼失しているが、江戸時代になって阿波藩主の庇護をうけて繁栄し、現在の本堂や大師堂は文化、文政年間(1804〜30)ころに建立された由緒ある建造物である  
恩山寺ずっーと手前車道に朽ち果てた山門 駐車場に弘法大師像
大師が母の来山を記念してお手植えされた
「ビランジュ」の巨木が(右側の木)
石段の登り境内へと
修行大師像と石段上本堂  本堂 本尊・薬師如来 
 大師堂(自像を彫造して安置されています) 恩山寺境内(左・大師堂 中央・本堂) 
  井戸寺まで約20km


2014年10月17日、昨年の香川県(逆打ち)に続いて遍路旅に出かけました。今回は日帰りです
10年前に1番札所から11番札所まで参拝していたので今回は12番札所から18番札所までの参拝です。


(るりざん しんぷくいん いどじ)

所在地:徳島県徳島市国府町井戸北屋敷80-1
電話:088-642-1324


【本尊】七仏薬師如来(病気を治す仏様)
天武天皇(在位673〜86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であったという。本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、聖徳太子の作と伝えられ、また、脇仏の日光・月光菩薩像は行基菩薩の彫造と伝えられる。のち弘仁6年(815)に弘法大師がこれらの尊像を拝むために訪れたとき、檜に像高約1.9メートルの十一面観音像を彫って安置されている。この像は、右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶をもった姿形で、現在、国の重要文化財に指定されている。大師はまた、この村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。そこで付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。  
井戸寺・仁王門 鮮やかな朱色の門が
堂々とした佇まいを見せています。
仁王門をくぐり境内へ
本堂 本尊・七仏薬師如来 大師堂
里人の為に錫杖で一夜のうちに
井戸を掘った “面影の井戸” 
面影の井戸・井戸に自分の顔が映れば長寿、
映らなければ不幸になるという。 
  観音寺まで約4 km


(こうようざん せんじゅいん かんのんじ)

所在地:徳島県徳島市国府町観音寺49-2
電話:088-642-2375


【本尊】千手観世音菩薩(現世利益の仏様)
聖武天皇(在位724〜49)が天平13年、全国68ヶ所に国分寺・国分尼に寺を創建したときに、行基菩薩に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹とされている。弘法大師がこの地を訪ねているのは弘仁7年(816)のころで、本尊の千手観音と脇仏の不動明王、毘沙門天を刻み祀ったという。その後、他の阿波各地の霊場と同じように栄枯盛衰の運命を歩み、「天正の兵火」(1573〜92)にも罹災、蜂須賀家の帰依を受けて万治2年(1659)に宥応法師によって再建され、現在に至っていると伝えられる。  
観音寺・鐘楼門 夜泣きを止めてくれる地蔵尊で、
子供の病気平癒、健康と成長を祈願する
本堂 本尊・千手観音 大師堂
  国分寺まで約 2km


(やくおうざん こんじきいん こくぶんじ)

所在地:徳島県徳島市国府町矢野718-1
電話:088-642-0525


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)
国分寺は聖武天皇(在位724〜49)の詔勅によって国家鎮護の目的で諸国に建てられた。当時の規模は寺領二町四方というから、ずいぶん大きかったらしい。七堂伽藍があって、寺勢も強かった。当時の国司は、政治を行う前に国分寺の参詣をしていたという。政治、文化の中心地だったから、当然寺も栄えていたと思われる。
縁起によると、阿波国分寺には聖武天皇から釈迦如来の尊像と『大般若経』が納められ、本堂には光明皇后のご位牌厨子を奉祀されたと伝えられている。開基は行基菩薩で、自ら薬師如来を彫造し本尊としている。「天正の兵火」で焼失したが、現在の本堂は文化文政年間(1804~29)に、第9世光山文明和上によって再建された。
  
国分寺・仁王門  
石碑には聖武天皇と刻まれている。
仁王門正面に鐘楼、本堂が・・
本堂 本尊・薬師如来
重層の入母屋造りで、聖武天皇、光明皇后の
位牌が祀られている。
大師堂
  常楽寺まで約 1km


(せいじゅざん えんめいいん じょうらくじ)

所在地:徳島県徳島市国府町延命606
電話:088-642-0471


【本尊】弥勒菩薩(平和と希望を約束する仏様)
四国霊場のなかで唯一、弥勒菩薩を本尊としている。弥勒菩薩は56億7千万年の後まで、衆生の救済を考え続けて出現するといわれる未来仏である。縁起では、弘法大師が42歳の厄年のころ、この地で真言の秘法を修行していたときに、多くの菩薩を従えて化身した弥勒さまが来迎されたという。
  大師はすぐに感得し、そばの霊木にその尊像を彫造し、堂宇を建立して本尊にした。この本尊について大師は、御遺告の一節に「吾れ閉眼の後、兜率天に往生し弥勒慈尊の御前に侍すべし。56億余の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべし…」と触れられていることからも、常楽寺への篤い思いが偲ばれる。、「天正の兵火」により焼失し灰燼に帰している。だが、江戸時代初期には復興、後期の文化15年(1818)に低地の谷地から石段を約50段のぼった現在地の「流水岩の庭」近くに移っている。奇形な岩盤の断層が重なる「流水岩の庭」。自然の美しさにとけ込む魅力を醸し出す。
常楽寺の入口はここ 奇妙の岩肌を見せる石段
奇妙な岩肌を見せる境内の流水岩 境内に弘法大師像
 本堂 本尊・弥勒菩薩 大師堂 
  大日寺まで約 3.3km


(おぐりざん けぞういん) だいにちじ)

所在地:徳島県徳島市一宮町西丁263
電話:088-644-0069


【本尊】十一面観世音菩薩(災難除けの仏様)
開基は弘法大師とされ、縁起によると「大師が森」というこの地で護摩修法をされていたさいに、空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げられた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置したと伝えられている。寺名の由来もこの縁起による。境内は老樹に覆われ、密教寺院の雰囲気を漂わせているが、戦国時代には「天正の兵火」により堂塔はすべてが罹災している。その後、江戸時代の前期に阿波3代目藩主、蜂須賀光隆公により本堂が再建された。  
大日寺・山門 山門正面に“しあわせ観音”
本堂 本尊・十一面観音 大師堂
車道から大日寺全体を・・
  焼山寺まで約 30km


(まろざん しょうじゅいん しょうさんじ)

所在地:徳島県名西郡神山町下分字中318
電話:088-677-0112


本尊】虚空蔵菩薩(智慧と記憶力を授けてくださる仏様)

焼山寺山(標高938メートル)の8合目近くにあり、四国霊場で2番目に高い山岳札所。
縁起によると、飛鳥時代に役行者が山をひらいて、蔵王権現を祀ったのが寺のはじまりとされている。ところが、この山には神通力を持った大蛇が棲んでおり、しばしば火を吐いて農作物や村人たちを襲っていた。弘仁6年ころ、弘法大師がこの地に巡られた時、一本杉で休んでいた処、阿弥陀様があらわれた夢を見た。目を覚ますと目の前が火の海になっている。そこで麓の垢取川で身を清めて山に登ると、大蛇は全山を火の海にして妨害した。大師は「摩廬(水輪の意)の印いん」を結び、真言を唱えながら進んだのだが、大蛇は山頂近くの岩窟で姿をあらわした。大師は一心に祈願し、虚空蔵菩薩の御加護のもと岩窟に封じ込めた。そして自ら彫られた三面大黒天を安置し被害を受けていた民家の大衆安楽、五穀豊穣を祈った。また山は「焼山」となってしまったので大師が「焼山寺」と名付けた  
昔は嶮しい坂道の難所を辿る「修行の霊場」で
あったが、いまは山上まで車道が通っている
参道に不動明王
焼山寺への参道には十三仏が
奉納されています。
十三仏・釈迦如来
十三仏が奉納された参道を進む 十三仏・ 文殊菩薩
十三仏・ 薬師如来 どこまで続く 
いかにも深山の寺といった風情です。 仁王門の先にも石段が続く 
石段を踏みしめながら歩く。老樹の大きさに圧倒される。 
本堂 本尊・虚空蔵菩薩 大師堂 
 
山腹であるにもかかわらず境内はかなり広い。そこに本堂と大師堂が並んでいます。
   藤井寺まで約14km

藤井寺からは2004年に参拝、朱印を頂いているので写真のみの駆け足の参拝になります。


(こんごうざん いちじょういん ふじいでら)


所在地:徳島県吉野川市鴨島町飯尾1525
電話:0883-24-2384


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)
三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、弘仁6年にこの地で護摩修法をしたと伝えられます。大師は42歳の厄年に当たり、自らの厄祓い、衆生(しゅじょう)の安寧(あんねい)を願い、薬師如来像を刻み堂宇を建立されました。寺は、真言密教の道場として栄え、七堂伽藍(しちどうがらん)を構える大寺院でしたが、天正年間(1573年~92年)の兵火により焼失しましが、本尊は被害を免れた。その後、延宝2年(1647年)に臨済宗の南山国師(なんざんこくし)によって再興されます。その時に宗派を臨済宗に改めています。  
藤井寺・仁王門 案内板の後ろ、お大師さまのお手植えと
伝えられる藤の古木
仁王門から右へ、石段を上れば正面本堂 本堂 本尊・薬師如来
 大師堂 不動堂と後方、白龍弁財天・八つの手を持つ龍、
白龍弁財天を祀ったお堂です。
  切幡寺まで12km


(とくどざん かんぢょういん きりはたじ)

所在地:徳島県阿波市市場町切幡字観音129
電話:0883-36-3010


【本尊】千手観世音菩薩(現世利益の仏様)

その昔、切幡山の山麓に機織りの娘がおりました。ここで修行をしていた弘法大師は、僧衣(そうい)を繕うための布切れを所望されたそうです。娘は織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出します。大師は感動し、「なにか望みはないか」と尋ねられます
娘は、「亡き父母に代わり、観音様をつくってお祀りして、私も仏門に入り精進したい」と願い告白したそうです。大師は強く心を打たれ、千手観音像を刻み、娘を得度(とくど、仏門に入ること)させ、灌頂(かんじょう、仏門に入る時の儀式)を授けました。すると、娘はたちまち即身成仏し、身体から七色の光を放ち千手観音菩薩に変身したそうです。 
切幡寺・仁王門 山門から約800m。
その中に333段の石段があります。
是より234段 女厄坂(33段)
最後は、男厄坂(42段)になっています。  切幡寺本堂 本尊・千手観音
 大師堂と大師像 大塔への石段の途中不動堂 
 豊臣秀頼が秀吉の菩提を弔うため大阪に建立したものを、明治6年に移築したものです。
国指定重要文化財。本堂より、さらに111段の石段を登ります。
眺望が素晴らしい。眼下には吉野川の流れ、前方には四国山脈の山々が連なります。 
 法輪寺まで約5km


(しょうかくざん ぼだいいん ほうりんじ)

所在地:徳島県阿波市土成町土成字田中198-2
電話:088-695-2080


【本尊】涅槃釈迦如来(智慧と慈悲を備えた仏様)
法輪寺は、弘仁6年(815)に弘法大師が仏の使いである白蛇との出会ったのを機に涅槃釈迦如来を刻み、これを本尊として開創したのが始まりとされている。 当時は「白蛇山法淋寺」といい別の所にあったが、天正10年(1582)の長曽我部元親の兵火により焼失。 正保年間(1644~48)に現在の場所に移され、山号と寺名も改められた。安政6年(1859)に再び焼失し、明治になって再建されている。
 
道路沿いにある法輪寺の周りは田畑が広がっていました。門前には一軒「お遍路さんお休み処」があって手作りのお餅などが販売されていました。ちょっと小腹がすいていたので、いも餅を買い求めました。 美味しかった
  
法輪寺・仁王門 仁王門正面に本堂が見える。
本堂と大師像 本尊・涅槃釈迦如来 大師堂・本堂と大師堂は並んで建っています。
   熊谷寺まで約3km


(ふみょうざん しんこういん くまたにじ)

所在地:徳島県阿波市土成町土成字前田185
電話:088-695-2065

【本尊】阿弥陀如来(極楽往生を約束する仏様)

縁起によると弘仁6年、弘法大師がこの地で修行されていた時、紀州の熊野権現があらわれ「末世の衆生を長く済度せよ」と告げられ、5.5cmほどの金の観世音菩薩像を授け去って行ったといわれます。
大師はその場にお堂を建て、霊木に自ら等身大の千手観世音菩薩像を刻み、その胎内に金の尊像を納めて本尊にしたと伝えられています。 この本尊は昭和2年の火災で本堂とともに焼失しています。現在の本尊は昭和46年に開眼法要されたものです。歴史を感じさせる仁王門、大師堂。遠い昔に思いいを馳せる熊谷寺は小高い山の中腹にあります。  
熊谷寺・豪壮な二層の仁王門 1687年建立 仁王門から車道を挟んで参道を駐車場へと
2層目の屋根が極彩色美しい多宝塔。安永3年
(1774年)建立。内部には胎蔵界の大日如来像を
中心に、四方に如来像が安置されています。
スピーカーから流れる
ご詠歌が迎えてくれました。
中門 中門両脇カラフルな像が・・
 仁王門から石段上の本堂を望む 熊谷寺本堂  本尊・千手観世音菩薩
鐘楼・大師像右側42段の石段を上ると大師堂  大師堂・宝永4年(1707年)の建立
県の指定文化財。
 
   十楽寺まで約4.1km


(こうみょうざん れんげいん じゅうらくじ)

所在地:徳島県阿波市高尾字法教田58
電話:088-695-2150


【本尊】阿弥陀如来(極楽往生を約束する仏様)
寺は現在地から北3キロほど奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定される。大同年間に弘法大師がこの地を巡教して逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたといわれる。創建からしばらくは、阿波の北方きっての広大な七堂伽藍を誇っていたが、天正10年(1528)長宗我部元親による兵火で、すべての堂塔が焼失した。幸い、本尊は時の住職が背負い難を免れたという。寛永12年(1635)に現在の地に移り、再建された。明治時代になり本堂が再建され、本格的な大師堂、書院などを整え、さらに平成6年には立派な木造の本堂を建立している  
十楽寺・色も形も中国風の門・竜宮門 十楽寺・遍照殿
十楽寺本堂 本尊・阿弥陀如来 石段を上れば大師堂
 十楽寺・大師堂 第13期海軍飛行予備学生戦没記念碑 
   安楽寺まで約1.1km


(おんせんざん るりこういん あんらくじ)

所在地:徳島県板野郡上板町引野8
電話:088-694-2046


【本尊】薬師如来(病気を治す仏様)

開基当時、寺は今の場所から1.5km程西の安楽寺谷にあったが天正の兵火で焼失し、万治年間(1658~61)に現在地に移って再興したと伝えられている。 安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、山号は温泉山とされた。(現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。)桃山時代に阿波藩祖・蜂須賀家政公が「駅路寺」と定め、四国遍路や旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置いた。  
安楽寺・鉄筋コンクリートのユニークな形の鐘楼門 鐘楼門から広々した境内、先に本堂が
昭和38年に再建された鉄筋コンクリートの
安楽寺本堂 本尊・薬師如来
大師堂は屋根瓦の古い木造で
本堂とは対照的
境内にある庭園と多宝塔   鯉が泳ぐ日本式の回遊庭園の中央に、弘法大師42才(男性の大厄)の時に猟師の弓矢から大師を守ったと伝わる、大師お手植えの厄除けの「さかまつ」がある
   地蔵寺まで約5km


(むじんざん しょうごいん じぞうじ)

所在地:徳島県板野郡板野町羅漢字林東5
電話:088-672-4111


【本尊】勝軍地蔵菩薩(天界から地獄まで救う仏様)
  嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願により、弘仁12年弘法大師が開創された。大師は、自ら約5・5センチの勝軍地蔵菩薩を彫られ、本尊に安置したと伝えられる。その後、淳和天皇(在位823〜33)、仁明天皇(在位833〜50)の3代にわたり天皇家が篤く帰き依えされた。さらに紀州・熊野権現の導師を務めていた浄函上人が霊木に延命地蔵菩薩像を刻み、その胎内に大師作の勝軍地蔵菩薩を納められたとも伝えられている。この勝軍地蔵菩薩は甲冑を身につけけて馬にまたがった勇姿。源頼朝、義経をはじめ、蜂須賀家などの武将たちの信仰を集めた。天正年間の兵火で焼失したが、江戸時代に本堂や大師堂が再建された。
地蔵寺・仁王門 仁王門を入ってすぐ目に付く大銀杏の木
樹齢800年
地蔵寺本堂 本尊・勝軍地蔵菩薩  本堂と向かい合っている、大師堂
 弘法大師像が仁王門横に・・ 大銀杏の木の下にはベンチが置かれています。 
   大日寺まで約2.6km


(こくがんざん へんじょういん だいにちじ)

所在地:徳島県板野郡板野町黒谷字居内5
電話:088-672-1225


【本尊】大日如来(宇宙最高の仏様)

弘法大師が42歳にあたる弘仁6年、この地に長く留まり修行していたとき、大日如来を感得された。大師は、一刀三礼をして55センチほどの大日如来像を彫造され、これを本尊として創建し、寺号を本尊に因んで
「大日寺」と命名したと伝えられる。また「黒厳山」の山号は、境内が三方を山に隔てられており、人里はなれたこの地は「黒谷」と称されたのが由来といわれ、地元では「黒谷寺」とも呼ばれていたという。寺運は幾度か衰退を繰り返したが、藩主蜂須賀家に保護され、堂塔の修理を重ねて現在に至っている。 
山を背にした朱色の鐘楼門 鐘楼門から境内を・・
深い山中にひっそりとたたずむ古寺の詩情が格別
大日寺本堂 本尊・大日如来 大師堂・・本堂から大師堂へは
回廊で繋がっている。
   金泉寺まで約5.5km


(きこうざん しゃかいん こんせんじ)

所在地:徳島県板野郡板野町大字亀山下66
電話:088-672-1087

【本尊】釈迦如来(智慧と慈悲を備えた仏様)

  聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。そのころの本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して開基したという。弘仁年間(810〜24)になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。その後、亀山天皇(在位1259〜74)が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。
金泉寺仁王門 橋では杖をつかないこと。前方本堂
金泉寺本堂 本尊・釈迦如来
(智慧と慈悲を備えた仏様)
年代を思わせる、大師堂
弁慶が持ち上げたという力石と
朱塗りの二重の塔
黄金の井戸・ 地元の住民が水不足を訴えたので
大師が掘った井戸、すると霊水が湧き出た
   極楽寺まで約2.7km


(にっしょうざん むりょうじゅいん ごくらくじ)

所在地:徳島県鳴門市大麻町檜字段の上12
電話:088-689-1112


【本尊】阿弥陀如来(極楽往生を約束する仏様)
行基菩薩の開基と伝えられているが、弘仁6年(815)、42歳の弘法大師がこの地で三七日間『阿弥陀経』を読誦し、修法された。その結願の日に、阿弥陀如来が出現したので、大師はその姿を彫造して本尊とされた。この阿弥陀如来像は、尊容が美しく、発する光は遠く鳴門の長原沖まで達したという。漁民たちは、漁の妨げになると本堂の前に人工の小山を築いて光を遮ったという故事から、「日照山」と号した。その後、天正年間(1573〜92)に長宗我部元親の兵火で焼失したが、万治2年(1659)、本堂は蜂須賀光隆公の援助によって再建されている。  
瓦葺き二層で朱塗りの仁王門 仁王門をくぐると極楽浄土をイメージしたような
庭園が広がっています。
本堂と大師堂は小高い丘の上にあり、左手に薬師堂、
右手に観音堂を見ながら石段を上る
石段の上が本堂
 極楽寺本堂 本尊・阿弥陀如来 右手奥が大師堂で、この大師像は
「安産大師」とも呼ばれている
雲海の浄土と名付けられた庭園 
 霊山寺まで約1.2km

(じくわざん いちじょういん りょうぜんじ)

所在地:徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126
電話:088-689-1111


【本尊】釈迦如来(智慧と慈悲を備えた仏様)
縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が開創された。弘仁6年(815)、弘法大師が四国の東北から右廻りに巡教された際、この地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難を攘はらって、心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられた。
このときの念持仏が釈迦誕生仏像であり、本尊の前に納められたことから四国八十八ヶ所の第一番札所とさだめ、霊場の開設・成就を祈願されたと伝えられる。誕生仏は白鳳時代の作で、身の丈約14センチ余の小さな銅造である
霊山寺・風格のある仁王門 参道正面に本堂・本尊・釈迦如来
仁王門をくぐるとすぐ右手に泉水池があり、
その斜め奥に、大師堂があります。
多宝塔・応永年間(1394〜1428)の建造で、
五智如来像が祀られている。
不動明王 不動明王の並びに十三佛堂があります。 
弘法大師さま中央に、八十八寺 御本尊さまです。